MENU時代とは? わかりやすく解説

MENU時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:12 UTC 版)

ちわきまゆみ」の記事における「MENU時代」の解説

ちわきは大学在学中から、バンドボーカルとして活動していた。 リーダー星渉(ほし わたる)と、「MENU」の原型となるバンドLe Menu」を結成当時5人編成で、星とちわきの他、のちにDe-LAX結成する京極輝男と鈴木正美、キーボード内田理恵在籍した1980年代流行した無国籍風ニューウェイヴ・バンド色が強くトーキング・ヘッズバウ・ワウ・ワウエイドリアン・ブリューなどに影響受けていたと星は語っている。その後音楽性の違いから他のメンバー脱退、星とちわきの2人でテクノポップユニット「MENU」を結成し、星が作曲、ちわきが作詞ボーカルという体制となったMENUとしては、ユピテル工業レコードレーベル「ユピテルレコード」から、1983年原マスミ太洋民技 (Pacific Ethno Techno) との共演オムニバス・アルバム明るい家族計画』をリリース、「オハヨーSONG」「パイナップル・プリンセス」の2曲で参加。MENU時代も鈴木正美はサポートメンバーとして参加していた。 ユピテルレコードからは、1984年に『明るい家族計画』からのシングルカット『オハヨーSONG/パイナップル・プリンセス』をリリースジャケットデザインは『明るい家族計画』のものがそのまま使用されている。同1984年にはユピテルレコードからミニアルバム2枚発表、『Do Do'n' Ka-Don!(ドドンカドン!)』、『RAKU RAKU KIRAKU』をリリースしたその後東芝EMIの「Eastworldレーベル移籍し1985年にリミックスミニアルバム『Re-Face』(規格品番:WTP40200)をリリース。同1985年には、富士フイルムのフォトラマのCMCF出演した。同1985年MENU解散ソロデビューした。 ちわきがMENU時代に目指していたのは、オルタード・イメージ(英語版)のクレア・グローガン(英語版)や、プラスチックス佐藤チカ英語版であった。そのため、彼女ら歌声のように個性持たないといけないと思ったことから、ロリータ&ニュー・ウェイヴ的なアプローチをしてみた、と語っていた。 デビュー当時は「喝采」のヒット知られるちあきなおみによく間違われ実際に音楽雑誌などでも誤植相次いだため『VOW』(宝島社)にも取り上げられた。

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