MENU時代
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ちわきは大学在学中から、バンドのボーカルとして活動していた。 リーダーの星渉(ほし わたる)と、「MENU」の原型となるバンド「Le Menu」を結成。当時は5人編成で、星とちわきの他、のちにDe-LAXを結成する京極輝男と鈴木正美、キーボードの内田理恵が在籍した。1980年代に流行した無国籍風ニューウェイヴ・バンド色が強く、トーキング・ヘッズやバウ・ワウ・ワウ、エイドリアン・ブリューなどに影響を受けていたと星は語っている。その後、音楽性の違いから他のメンバーが脱退、星とちわきの2人でテクノポップユニット「MENU」を結成し、星が作曲、ちわきが作詞とボーカルという体制となった。 MENUとしては、ユピテル工業のレコードレーベル「ユピテルレコード」から、1983年に原マスミ、太洋民技 (Pacific Ethno Techno) との共演でオムニバス・アルバム『明るい家族計画』をリリース、「オハヨーSONG」「パイナップル・プリンセス」の2曲で参加。MENU時代も鈴木正美はサポートメンバーとして参加していた。 ユピテルレコードからは、1984年に『明るい家族計画』からのシングルカット『オハヨーSONG/パイナップル・プリンセス』をリリース、ジャケットデザインは『明るい家族計画』のものがそのまま使用されている。同1984年にはユピテルレコードからミニアルバム2枚を発表、『Do Do'n' Ka-Don!(ドドンカドン!)』、『RAKU RAKU KIRAKU』をリリースした。 その後、東芝EMIの「Eastworld」レーベルに移籍し、1985年にリミックスミニアルバム『Re-Face』(規格品番:WTP40200)をリリース。同1985年には、富士フイルムのフォトラマのCMでCF出演した。同1985年にMENUを解散、ソロデビューした。 ちわきがMENU時代に目指していたのは、オルタード・イメージ(英語版)のクレア・グローガン(英語版)や、プラスチックスの佐藤チカ(英語版)であった。そのため、彼女らの歌声のように個性を持たないといけないと思ったことから、ロリータ&ニュー・ウェイヴ的なアプローチをしてみた、と語っていた。 デビュー当時は「喝采」のヒットで知られるちあきなおみによく間違われ、実際に音楽雑誌などでも誤植が相次いだため『VOW』(宝島社)にも取り上げられた。
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