リジェ・JS39とは? わかりやすく解説

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リジェ・JS39

(Ligier JS39 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/06 14:43 UTC 版)

リジェ・JS39 / JS39B
カテゴリー F1
コンストラクター リジェ
デザイナー ジェラール・ドゥカルージュ(テクニカルディレクター, -1994.5)
ジョン・デイビス(デザイナー, -1994.5)
フランク・ダーニー(チーフデザイナー, 1994.6- )
先代 リジェ・JS37
後継 リジェ・JS41
主要諸元
シャシー モノコック カーボンファイバー ケブラー
サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン, プッシュロッド, ペンスキー製ダンパー
サスペンション(後) ダブルウィッシュボーン, プッシュロッド, ペンスキー製ダンパー
全長 4,335 mm
全幅 1,995 mm
全高 950 mm
エンジン ルノー RS5/6 (メカクローム), 3.5リッター, 780-790馬力 67度 V10, NA,TRC ミッドエンジン, 縦置き,
トランスミッション ウィリアムズ / XTrac製 6速 横置きセミオートマティックトランスミッション
重量 505kg
燃料 エルフ
タイヤ グッドイヤー
主要成績
チーム リジェ ジタン・ブロンド
ドライバー マーティン・ブランドル
マーク・ブランデル
エリック・ベルナール
ジョニー・ハーバート
フランク・ラゴルス
オリビエ・パニス
初戦 1993年南アフリカグランプリ
出走優勝表彰台ポールFラップ
320500
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リジェ・JS39 (Ligier JS39) は、リジェチームが1993年F1参戦に用いたフォーミュラ1カー。デザイナーはジェラール・ドゥカルージュジョン・デイビス1994年シーズンも全戦で使用された。決勝最高成績は2位。

概要

開発

リジェへのエンジン供給2年目となるルノーとのパイプを生かし、ウィリアムズ製の6速セミオートマチックトランスミッションを搭載。トラクションコントロールアクティブサスペンションは自社で開発していたが、アクティブサスについては実戦投入はされずパッシブのペンスキーダンパーを使用する。ルノーエンジンでウィリアムズと異なる部分は、メンテナンス/組み上げ作業がメカクローム社によって行われる(ウィリアムズはルノー・スポール)点と、エンジンマネージメントシステムもウィリアムズと違いメカクローム製のシステムであるが、ルノーのベルナール・デュドいわく「それによる性能の差異はほとんど生じていない。」というもので、ルノーパワーを生かすマシンの空力面の性能が課題であった。前作JS37、前々作JS35と空力面での遅れがリジェの弱さと言われていたが、このJS39も登場時は太目のノーズラインやサイドポッド後部の処理などを見たパドック関係者から「リジェの使っている風洞実験室はこの数年データが狂っているのではないか?」と噂されるなどエアロダイナミクスを低く評されていた[1]。メーターパネルもルノー製である。なお、JS39は1970年代からマシン設計をしてきたジェラール・ドゥカルージュが設計に携わった最後のF1マシンである。

1993年シーズン

シーズンオフに創設者のギ・リジェが運営から手を引き、新オーナーの実業家シリル・ド・ルーブル英語版フランス語版に売却し交代。チーム名こそリジェのままだが体制を一新した再出発のシーズンであった。エンジンはルノー RS5 3.5リッター V10を搭載し、ジタンがスポンサードした。ドライバーはまずウィリアムズ・ルノーのテストドライバー経歴を持ち、リジェに搭載されるセミオートマの開発もしていたマーク・ブランデルの起用が決定[2]、リジェ初のイギリス人ドライバーの起用であった。もう1人にはルノーとエルフから推薦されていたエリック・ベルナールが濃厚とされていたが、開幕直前に前年ベネトンでランキング6位と活躍したがシートを失っていたマーティン・ブランドルの加入が決まり、ベルナールはテスト&サードドライバーに就任することになった[3]。これはブランドル自らも「まさか2人ともイギリス人にすると思わなかったので少々驚きもあった」と語るドライバー人事だった。

チャンピオンチームであるウィリアムズと同スペックのルノーエンジンを搭載して2年目となり、開幕戦南アフリカGPでJS39はマーク・ブランデルによりいきなり3位表彰台を獲得し、第2戦ブラジルGPでも5位と連続入賞。マーティン・ブランドルもサンマリノGPで3位表彰台、モナコGPで6位と、リジェ・ルノーは第6戦終了時点ですでに前年を上回る11ポイント獲得、コンストラクターズ4位につけるなど、ルノーV10を搭載して2年目にしてやっとその強力なエンジンパワーに相応しいリザルトを残した。リジェがこれだけの活躍をするのは1986年ターボ時代以来7シーズンぶりのことであった。シーズン通算では23ポイントを獲得し、コンストラクターズランキングは5位という好成績を収めた。しかしシーズン終盤にはオーナーのド・ルーブルに所有していた映画会社に関する商法違反で逮捕されるのではないかと嫌疑が掛けられ、多くの開発作業がストップ。加えてドライバーに1人もフランス人を起用しなかったことでフランスのスポンサー離れも招いていた。シーズン終了後ブランデルはティレル・ヤマハへ、ブランドルはマクラーレン・プジョーへと移籍しリジェを離れた。

なお、日本GPでは日本国内でのジタンタバコの販売開始を記念して、ブランドルのマシンのみ迷彩模様のようなアートカラーリングで走行した。デザインはイタリアの漫画家ウーゴ・プラット (Hugo Pratt) が手掛けた。当時は1台のみスペシャルカラーリングを施すこともできたが[4]、1999年以降は(特例は除いて)同一チームのマシンは同じカラーリングで走行することが義務付けられている。

1994年シーズン

エリック・ベルナールがドライブするJS39B(1994年イギリスGP

オーナーのド・ルーブルが商法違反と横領の容疑で逮捕され2ヵ月近く収監された。チーム運営費もタイトな状況となったリジェには1994年用の新車を製作する余裕は無く、前年用マシンをJS39Bとして継続使用した。カラーリングを含め外観は前年型とほぼ変化が無かった。エンジンはルノー RS6 3.5リッター V10を搭載した。ドライバーは前年テストドライバーだったエリック・ベルナールが2年ぶりのF1復帰となり、セカンドシートには前年国際F3000チャンピオンを獲得しエルフの秘蔵っ子でもあるオリビエ・パニスが加入。前年から一転してフランス色を強め、ジタンや、とくに不満を表明したというロトくじ(フランス宝くじ公団)など大口スポンサーへの支援継続を訴えた[5]

2年目の使用となったマシンは既に古くなっていたうえに、第4戦モナコGP期間中にベネトンフラビオ・ブリアトーレによる買収が発表されると、テクニカルディレクターのジェラール・ドゥカルージュがチームを去った。中心的なエンジニアもザウバーシムテックへ流出するなどカナダGPまでチームには何も新しい変化が無く、マシンの方向性はどうなるのかと懸念されたが、カナダGP終了後にブリアトーレから依頼を受けたというチェーザレ・フィオリオがチームマネージャーに就任。ベネトンおよびTWRによるチームのテコ入れが開始され、フランク・ダーニーが送り込まれテクニカルディレクターに、さらにベネトンのロリー・バーンマニクールでのリジェのプライベートテストに顔を出してマシンをチェック。イギリスの施設でJS39Bの風洞実験をするなど[6]、チームはシステマチックに動き出しマシンの戦闘力も上がった。実際に2台が表彰台に上がったドイツGPでは、既にリジェは彼らの指揮下にあった。アンダートレイと空力パーツの改良が加えられ、特にアンダートレイは何種類もテストを繰り返したがどれもハンドリングがセンシティブになる傾向があり、形状が決まるまで時間が掛かった[7]。テストではベネトンドライバーであるヨス・フェルスタッペンJ.J.レートもJS39Bをドライブし変更パーツの評価を担当した。

シャシーは根本的にメカニカルグリップ不足であるという難点はあったが、他に比べて勝っているルノーV10・RS6エンジンを使用しているメリットは大きく、多少コーナーリング性能で劣っていてもそれをルノーのハイパワーでカバーするようなマシンだった。今宮純はシーズン終了後にJS39Bを「'93とほとんど変わらないマシンで特別の速さは無かったが、トラブルの発生は非常に少なく、ルノーV10の高い性能を生かして完走を重ねた。ドイツでのダブル表彰台だけでなく、パニスのハンガリーと最終戦アデレードでのポイントゲットも効いてコンストラクターズ6位に入り、前年終盤からのチーム内情を考えればこの信頼性は評価すべきマシンだ。」と述べている[8]。また津川哲夫は、「JS39Bは前年から変更が加えられたわけでもなく、'94年の序盤は参戦するだけで手一杯だったが、5月にブリアトーレによる買収発表後このマシンのポテンシャルが明らかに上がったのは、ブリアトーレの力でもフランク・ダーニーのマジックでもなく、元からいるリジェのチームスタッフが余計な心配から解放されたことが大きかったのではないか。」と考察している[9]。シーズン獲得ポイントは13、コンストラクターズランキングは6位となった。

ブリアトーレの目論み通り、翌1995年からベネトンにルノーエンジンを譲り渡すことが決まった。ドライバー選考もベネトンの影響を受け、第14戦ヨーロッパGP直前に破産寸前のロータスからジョニー・ハーバートを買い取ると、それまでのレギュラーだったベルナールをロータスへ放出。ハーバートがベネトンに招聘されると、テストドライバーのフランク・ラゴルスにシートを与えた。

1994年12月12日にはベネトンが獲得したルノー・エンジンを早くテストするための手段として[10]、ベネトンでワールドチャンピオンとなったミハエル・シューマッハエストリルでJS39Bに乗り、ルノーV10エンジンの初試乗を行った[11]

F1における全成績

(key) (太字ポールポジション

シャシー エンジン タイヤ No. ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント 順位
1993年 JS39 ルノー RS5
3.5 V10
G RSA
BRA
EUR
SMR
ESP
MON
CAN
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
JPN
AUS
23 5
25 ブランドル Ret Ret Ret 3 Ret 6 5 5 14 8 5 7 Ret 6 9 6
26 ブランデル 3 5 Ret Ret 7 Ret Ret Ret 7 3 7 11 Ret Ret 7 9
1994年 JS39B ルノー RS6
3.5 V10
G BRA
PAC
SMR
MON
ESP
CAN
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
EUR
JPN
AUS
13 6
25 ベルナール Ret 10 12 Ret 8 13 Ret 13 3 10 10 7 10
ハーバート 8
ラゴルス Ret 11
26 パニス 11 9 11 9 7 12 Ret 12 2 6 7 10 DSQ 9 11 5
  • パニスは第13戦で9位完走したが、レース後車検でマシン底部のスキッドブロックが削れており規定以下の厚さだったため失格処分を受けた。

脚注

  1. ^ LIGIER RENAULT FUJI TVオフィシャルF1ハンドブックコンストラクターズ 90-94頁 フジテレビ出版/扶桑社 1993年7月30日発行
  2. ^ マーク・ブランデルがリジェと契約 1年ぶりのF1復帰 F1速報 テスト情報号 28頁 ニューズ出版 1993年2月12日発行
  3. ^ 僕の素敵なライバル マーク・ブランデル→エリック・ベルナール F1グランプリ特集 vol.060 78-79頁 1994年6月16日発行
  4. ^ 前例としては、1977年日本GPにおけるロータス・78(JPSカラーとインペリアルカラー)、1986年ポルトガルGPにおけるマクラーレン・MP4/2C(マールボロカラーとマールボロライトカラー)がある。
  5. ^ チェックアップ・ザ・ポテンシャル LIGIER 全てを失う前兆か 暗礁に乗り上げた94年 F1グランプリ特集 vol.057 45頁 1994年3月16日発行
  6. ^ チェックアップ・ザ・ポテンシャル LIGIER 着々と人事刷新・待たれるベネトン効果 F1グランプリ特集 vol.062 52頁 ソニーマガジンズ 1994年8月16日発行
  7. ^ LIGIER JS39B Renault オートスポーツAS+F HUMAN DOCUMENT永久保存版F1総集編1994 頁 三栄書房 1994年12月14日発行
  8. ^ '94年総括評価 LIGIER F1グランプリ特集 vol.067 43頁 ソニーマガジンズ 1995年1月16日発行
  9. ^ LIGIER 新体制で確実な戦力向上 F1グランプリ特集 vol.064 52頁 ソニーマガジンズ 1994年10月16日発行
  10. ^ The Day Schumacher Drove A Ligier UnracedF1 2018年1月11日
  11. ^ Michael Schumacher – Ligier JS39B – 1994 One Image F1 2013年4月19日





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