DIE IN CRIES結成 - 解散
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「yukihiro」の記事における「DIE IN CRIES結成 - 解散」の解説
1990年12月にZI:KILLを脱退した後、ロンドンに残ったyukihiroは現地の通訳と色々な場所に出かけていたという。その後、D'ERLANGERを解散したKYOにロンドンから電話をしたことで、新たなバンドを結成する方向に向かっていくこととなる。 まず、1991年8月10日にKYOがソロプロジェクトとしてDIE IN CRIESを開始し、アルバム『NOTHINGNESS TO REVOLUTION』を発表。1991年9月10日には、yukihiroが室姫深(ex.THE MAD CAPSULE MARKET'S)を誘い、ユニットOPTIC NERVEを結成し、アルバム『OPTIC NERVE ABSTRACTION』を発売。この作品は、当時yukihiroが目指していた「打ち込みとの同期を取り入れた音楽」となっており、小西健司(4-D、ex.P-MODEL)、TAKA(山口貴徳)、杉山勇司や百々政幸といったエレクトロ・ミュージックに精通する面々がレコーディングに参加している。当時、OPTIC NERVEは既に前述のKYOのアルバムに参加していたため、2人を加えて新たにバンドDIE IN CRIESとして活動することが決定した。そこにTAKASHIを加え、1992年3月11日にアルバム『VISAGE』でメジャーデビューを果たす。1995年7月2日に東京ベイNKホールでのライヴをもって解散するまでの全作品(スタジオアルバム5作、シングル7作)にドラマーとして携わっている。なお、このときの事務所がデンジャークルー・レコードだったことが、後に、sakuraが抜けてドラマーを探していたL'Arc〜en〜Cielに誘われるきっかけとなった。 1995年のDIE IN CRIES解散後からソロ活動を開始し、同年8月19日にはソロ名義で日清パワーステーションにてDJ&ライヴイベント「case in Water 〜invitation from yukihiro〜」を開催した。この模様は同年11月21日に発表したライヴビデオ&ライヴアルバム『「8.13」LIVE AT NISSIN POWER STATION '95.8.13』に収録された。また、ソロ活動の傍らで飯島直子のシングル「Change my mind」にサポートドラマーとして参加する他、大友康平やアイドルのサポートドラマーとして活動する。飯島直子のレコーディングに参加したのは、後藤次利がドラマーを探していたことがきっかけだったといい、yukihiro曰く「この後も何度か仕事を振ってもらえた」という。さらに、1996年1月24日には、THE MAD CAPSULE MARKET'Sのアルバム『4 PLUGS』にプログラマーとして参加している。ただ、このバンドに所属していなかった期間についてyukihiroは「ドラム以外の仕事をほとんどしなかったため、財産は尽きかけ住む家もなくなり、デンジャー・クルーのギターテックの家に居候する生活が一年ほど続いた」と後年に述懐している。
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