4代目と5代目の間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 06:05 UTC 版)
4代目(デコデコの文楽)は、その晩年、落語家を引退して、名前「桂文楽」を桂文治に返した。 そののち、複数の弟子の間で次期桂文楽の争奪戦があったことが明らかになっている。 8代目文楽(黒門町)は自伝で、代数をカウントされなかった芸のまずい「セコ文楽」が(5代目よりも前に)一人いると紹介している。ただし、橘左近は1999年に「実際には誰も居ない」と全面否定している(『東都噺家系図』)。つまり文楽の作り話だという。 文楽の言では「一代はあったんです。あったけれども、これは不遇にして世の中へ出なくて、(金が無く、死ぬ時ですら)人に面倒見てもらってお弔いを出した」人物だと語っている。しかし「セコ文楽」が誰であるのかなどと言ったことは明言されていない。 桂文楽の名を争った者が勝手に桂文楽を名乗った可能性がある。あるいは、正式に襲名したものの、その記録を抹消されなければならない何かがあったという可能性もある。 また、5代目とされたあんぱんの文楽は4代目の弟子ではないのでその争奪戦には参加していない。結局、引退の8年後にあんぱんの文楽が桂文楽を継ぐ。前述のように桂文楽の名跡は桂文治が当時持っており、文楽というよりも文治の縁である(あんぱんの文楽は桂文治門であり、当時名乗っていた名の「才賀」の初代は、のちの四代目桂文治である)。 そして5代目と4代目の間の8年間の歴史は現在の眼からは何も見えない。しかし、5代目をして自らを5代目と名乗ることはできなくなったのである。彼を5代目と呼んでいるのは後世の史家である。 なお、上方には、明治中期から大正初期にかけて桂文楽(本名:松村伝兵衛、通称「つんぼの文楽」)が存在している。広義では桂文治系の系列であるが、上方桂文枝系であり江戸文治系ではない。本項の桂文楽とは別とする。また黒門町が指摘したセコ文楽とも関係がない可能性が高い。
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