1979年 - 1993年
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「欧州緑の党」の記事における「1979年 - 1993年」の解説
1979年、各国の緑の党と急進主義政党が同年の欧州議会選挙において連携を図るため、欧州緑の党・急進党連合 (Coordination of European Green and Radical Parties, CEGRP) が組織された。緑の勢力と急進主義派勢力との間には大きな意見の差異があり、両勢力が共同で全欧州規模の選挙基盤を構築するのは不可能であった。緑の党の中には選挙で好結果を出したものもあったが、欧州議会で議席を獲得するまでには至らなかった。 緑の党は、1984年の選挙で再び欧州議会議員選挙に参加した。CEGRP は同年春にベルギー・リエージュで会議を開き、組織を再構築した欧州緑のコーディネーション (European Green Coordination, EGC) を結成し、オランダ急進党の提供による事務局を開いたほか、「ヨーロッパの緑の党の共同声明」も同時に発表した。さらに、会員政党の中から11名の欧州議会議員(ドイツ緑の党から7名、オランダ急進党から7名、オランダ平和社会党から1名、ベルギーのエコロ・アハレフからそれぞれ1名ずつ)が選ばれ、各会員政党の総合力もさらに増した。彼らは欧州議会で緑のオルタナティブ欧州リンク (Green Alternative European Link, GRAEL) という会派を組織したが、このグループは規模が小さく、欧州議会から補助金を受けたり委員会に参加したりすることができなかったため、オランダの欧州コミュニティに反対する市民運動など各国の地域主義政党や急進主義・社会主義政党からなるレインボー・グループに加わることになる。ヨーロッパの緑の党は欧州議会における GRAEL を頂点にし、その下に各国の緑の党を束ねる EGC, そして各会員政党という緩やかな三角形の組織構成をとっていた。 また、ドイツやオランダの会員政党が「欧州議会議員は任期の半分を務めた時点で他の人物と交代する」という原則を導入していたため、ヨーロッパの緑の党の立場は弱いものになっていた。この原則はもともとドイツ緑の党で始まったもので、本来の目的はドイツ連邦議会内での非公式な根回しによってメンバーが選ばれるのを防ぐことにあったが、欧州議会では逆効果をもたらすことになった。一方オランダでは、緑の勢力3政党が議会に2議席しか持っていなかったがための妥協策として、交代の原則が導入されていた。1議席はトップ当選した党が保持し、もう1議席を第2党と第3党とで交互に回すことで、3党すべてが欧州議会に代表を送り込めるようにしていたのである。 さらに、緑の勢力の中にも意見の違いが存在していた。特に親欧州主義と欧州懐疑主義の対立である。これらの要素もまた欧州議会での緑の党の立場を弱めていた。 1989年の選挙では、緑の勢力は30議席を得た。レインボー・グループとの政策の不一致のため、緑の勢力は独自会派グリーン・グループを組んだ。この期間中、緑の党は欧州議会ではさらにその体制を固めていった。
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