1979年 1993年とは? わかりやすく解説

1979年 - 1993年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 00:45 UTC 版)

欧州緑の党」の記事における「1979年 - 1993年」の解説

1979年各国緑の党急進主義政党同年欧州議会選挙において連携を図るため、欧州緑の党急進党連合 (Coordination of European Green and Radical Parties, CEGRP) が組織された。緑の勢力急進主義勢力との間には大きな意見差異があり、両勢力共同全欧規模選挙基盤構築するのは不可であった緑の党中には選挙で好結果出したものもあったが、欧州議会議席獲得するまでには至らなかった。 緑の党は、1984年選挙で再び欧州議会議員選挙参加したCEGRP同年春にベルギー・リエージュで会議開き組織再構築した欧州緑のコーディネーション (European Green Coordination, EGC) を結成しオランダ急進党の提供による事務局開いたほか、「ヨーロッパ緑の党共同声明」も同時に発表した。さらに、会員政党の中から11名の欧州議会議員ドイツ緑の党から7名、オランダ急進党から7名、オランダ和社会党から1名、ベルギーのエコロ・アハレフからそれぞれ1名ずつ)が選ばれ、各会員政党総合力もさらに増した。彼らは欧州議会で緑のオルタナティブ欧州リンク (Green Alternative European Link, GRAEL) という会派組織したが、このグループ規模小さく欧州議会から補助金受けたり委員会参加したりすることができなかったため、オランダ欧州コミュニティ反対する市民運動など各国地域主義政党急進主義社会主義政党からなるレインボー・グループに加わることになる。ヨーロッパ緑の党欧州議会における GRAEL頂点にし、その下に各国緑の党束ねる EGC, そして各会員政党という緩やかな三角形組織構成とっていた。 また、ドイツオランダ会員政党が「欧州議会議員任期半分務めた時点他の人物交代する」という原則導入していたため、ヨーロッパ緑の党立場は弱いものになっていた。この原則はもともとドイツ緑の党始まったもので、本来の目的ドイツ連邦議会内での非公式な根回しによってメンバー選ばれるのを防ぐことにあったが、欧州議会では逆効果もたらすことになった一方オランダでは、緑の勢力3政党議会に2議席しか持っていなかったがための妥協策として、交代原則導入されていた。1議席トップ当選した党が保持し、もう1議席第2党第3党とで交互に回すことで、3党すべてが欧州議会に代表を送り込めるようにしていたのである。 さらに、緑の勢力中にも意見違い存在していた。特に親欧州主義欧州懐疑主義対立である。これらの要素もまた欧州議会での緑の党立場弱めていた。 1989年選挙では、緑の勢力30議席得た。レインボー・グループとの政策不一致のため、緑の勢力は独自会派グリーン・グループを組んだこの期間中緑の党欧州議会ではさらにその体制固めていった。

※この「1979年 - 1993年」の解説は、「欧州緑の党」の解説の一部です。
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