1977年 - 1983年とは? わかりやすく解説

1977年 - 1983年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:54 UTC 版)

エアロスミス」の記事における「1977年 - 1983年」の解説

人気の拡大とともにバンド活動には2度目ヨーロッパツアーを含む大規模なツアー組み込まれ、その合間次作レコーディングが行われるという過酷なスケジュールになり、以前から使用していたとされるドラッグ使用頻度増していった(薬物乱用)。そのような中、1977年12月5thアルバムドロー・ザ・ライン』を発表全米チャート11位(Billboard 200)のヒットとなる。1978年3月にはロック・フェスティバルカリフォルニア・ジャム2』でヘッドライナー務め同年7月から公開されビートルズのアルバムサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を取り上げた同名タイトル映画にも出演ジョージ・マーティンプロデューサー迎え、「カム・トゥゲザー」をカバーするなど精力的な活動続いていた。しかし、バンド内ではスティーヴンジョー関係悪化進みステージ上で小突き合いまでしていた。さらに、バンド内に蔓延しているドラッグ癖が次作アルバム制作にまで影響を及ぼす状況になっていた。そして、1979年7月ロック・フェスティバル『ワールド・シリーズ・オブ・ロック』出演後に些細な出来事からバンド内で大喧嘩起こりジョーバンド脱退する事態にまで発展した同年11月ジョー新たに「ジョー・ペリー・プロジェクト」を立ち上げてライブ活動始めバンドジョー代わるギタリストとしてジミー・クレスポ加入しアルバム制作続行し制作途中であった6thアルバムナイト・イン・ザ・ラッツ』を完成させた(プロデューサーはゲイリー・ライオンズ)。 1980年3月、ジョー・ペリー・プロジェクトが1stアルバム熱く語れ!』を発表一方スティーヴン負傷などにより活動停滞していたバンドは、10月に初のベスト・アルバムグレイテスト・ヒッツ』を発表する1981年8月ブラッドがデレク・セント・ホルムズとアルバム『ウィットフォード/セント・ホムルズ』を発表しバンドから脱退するまた、ジョー・ペリー・プロジェクトは2ndアルバム忘れじのロックン・ロール』を発表する1982年8月ブラッド代わるギタリストリック・デュファイ迎えて7thアルバム美獣乱舞』を発表1983年9月、ジョー・ペリー・プロジェクト3rdアルバムいつまで熱く発表

※この「1977年 - 1983年」の解説は、「エアロスミス」の解説の一部です。
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