1949年のクーデター危機
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「グアテマラ革命」の記事における「1949年のクーデター危機」の解説
十月革命の立役者のひとりであるフランシスコ・ハビエル・アラナは民間に政権を渡すことに反対し、まず1944年の選挙を延期しようと試み、その後は選挙を無効化しようとした。アレバロを大統領として認めるのとひきかえにアラナは防衛相の上に新設されたグアテマラ軍長官(Jefe de las Fuerzas Armadas de Guatemala)の地位を獲得した。この地位は任期が6年間で、軍の人事すべてを支配した。1945年12月、アレバロは自動車事故にまきこまれて重傷を負った。クーデターを恐れる革命行動党(PAR)はアラナと取引し、1950年の選挙で党がアラナを支持するかわりにクーデターを起こさないことに合意した。 アレバロの改革を脅威と見なす大土地所有者の支持をアラナは集めた。1948年の議会選挙でアラナは多くの対立候補を支援したが、すべて落選した。1949年には国家刷新党(PRN)と革命行動党のいずれもアラナと敵対し、人民解放戦線(FPL)の一部だけがアラナを支持した。一方左翼諸党は軍事将校のみがアラナに勝つことができると考えてアルベンスを支持した。 1949年7月16日、アラナはアルバロ大統領に最後通牒を送り、アルベンスの支持者を内閣と軍から追放することを要求し、要求がいれられなければクーデターを起こすと脅迫した。アルバロとアルベンスは会合を持ち、アラナの追放が必要であることで一致した。その2日後、アレバロ大統領とアラナが会合を持ったときにアルベンスの手勢によって銃撃が行われ、アラナ本人を含む3人が射殺された。軍のアラナ派は反乱を起こしたが、指導者を欠いた反乱は約150人の死者と200人の負傷者を出して失敗し、カルロス・カスティージョ・アルマスを含むアラナ派は亡命した。この事件の詳細は公開されなかった。
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