1943年5月、メーネの惨劇
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「フレンデンベルク/ルール」の記事における「1943年5月、メーネの惨劇」の解説
1943年5月17日の夜、メーネタール・ダムが破壊された(チャスタイズ作戦)ことで、堰止め湖からメーネ川(ドイツ語版、英語版)に大量の水が流れ込んだ。これにより堰から約 20 km 下流に位置するフレンデンベルク近郊のルール川の谷にも津波が押し寄せた。津波は堰が破壊された約2時間後の02:45にこの街の一番外側の市区に到達した。現在のバーンホーフ通りでは、5月17日の04:00頃に水位がピークとなり、その深さは約 1.8 m に及んだ。この津波によって、ルール川に架かっていた道路橋も鉄道橋も破壊された。新しい橋に架け替えられていたラングシェーデのルール川の橋は、いくらかの損傷を除いて水圧に耐え抜いた。駅では機関車や車両が脱線し、一緒に押し流され、一部は横倒しとなった。デルヴィヒのクー橋は負荷に耐えられなかった。市内の11軒の家屋が全壊し、200軒が多かれ少なかれ被害を受けた。2の大企業 UNION とヒンメルマンは、18日から90日間休業した。フレンデンベルクとメンデンとの間の鉄道用仮橋が7月1日に、これに隣接する道路橋が8月18日に開通した。津波により、本市で36人が亡くなった。 カール=ヴィルトシュッツ通りの新しい老人ホームに近い民家に表示されている水位と、単線のみ再建された鉄道橋がメーネの惨劇を今も伝えている。
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