1722年から1850年までの兵器製造
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「プロイセン王立造兵廠」の記事における「1722年から1850年までの兵器製造」の解説
ポツダムやシュパンダウで製造された初めての小火器、フリントロック式の1723年式マスケット銃(ドイツ語版)はリエージュのメーカー、F.P.エヌールのマスケット銃の模造品であり、同社はプロイセン軍の初期の供給業者に名を連ねていた。何度も改修されたこの銃は、友邦への輸出のためにも製造された。1780年以降、1780/87年式歩兵銃の生産が始まる。1801年にはノートハルト銃(ドイツ語版)が後継品となったが、その導入はナポレオンとの軍事衝突によって妨げられた。シャルンホルストの軍事改革(ドイツ語版)とフランス軍の撤退後、造兵廠は改良されたマスケット銃、新プロイセン式歩兵銃こと1809年式歩兵銃(ドイツ語版)をもって生産を再開する。この銃のほとんどは後に、パーカッションロック式に改修された。 兵器・戦闘技術の新時代は、ヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼの撃針銃が切り開いた。諜報活動を妨げるため、この銃の製造はドライゼが所有する工場と国立施設でのみ行われることとされた。そのためプロイセンは、1722年から継続していたシュプリットゲルバー&ダウム商館(最後はシックラー兄弟)との賃貸借契約を解約し、兵器製造所をシュパンダウに集中する。 プロイセン王立造兵廠の製造品目には、当初からピストルやカービン銃が含まれていた。冷兵器としてはエペ、サーベル、槍や銃剣が造られた。1750年にはキュイラス(英語版)の製造が始まっている。 130年続いた賃貸借契約の間に、武器に当局の認証である「POTSDAMMAGAZ」やプロイセンの鷲の紋章(英語版)と並んで賃借人のイニシャルが刻印されており、それには世代の移り変わりとともに三つの種類があった。「S&D」はシュプリットゲルバー&ダウム商館とダウム家の後継者(1722年-1779年)、「DSE」はダーヴィット・シュプリットゲルバーとその後継者(1780年-1795年)そして「GS」はシックラー兄弟(1795年-1850年)のものである。
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