1720年 - 1740 年
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「オペラ・セリア」の記事における「1720年 - 1740 年」の解説
オペラ・セリアは、1720年代の初期に最終的な形式を獲得した。アレッサンドロ・スカルラッティはアポストロ・ゼーノと道を整備する一方で、メタスタージオとこのジャンルを結実させた。メタスタージオの最初の作品はセレナータ『ヘスペリデスの園』で、ニコラ・ポルポラ(後のハイドンの師)がそれに曲をつけ、成功を得た。このことで、高名なローマのプリマドンナ、La Romaninaことマリアンナ・ブルガレッリ(英語版)がメタスタージオに注目し、自分のprotegé(被保護者)にした。ブルガレッリの庇護下で、メタスタージオは『捨てられたディドーネ』(英語版)、『ウティカのカトーネ』、『エツィオ』(英語版)、『インドのアレッサンドロ』、『許されたセミラーミデ』、『シローエ』(英語版)、『アルタセルセ』と次々にオペラ台本を書き、その1本1本にイタリア、オーストリアの巨匠たちがそれぞれ別の曲をつけ、国境を越えたオペラ・セリアの性質が確立された。(たとえば『アルタセルセ』にはヴィンチ、ハッセ、グルック、カール・ハインリヒ・グラウン、ガルッピ、ヨハン・クリスティアン・バッハらが曲をつけた。Artaserse(英語版)参照)。1730年から1740年代の中頃まで、メタスタージオはウィーンに住み、帝国劇場のために、『アドリアーノ』、『デメトリオ』、『イッシーピレ』、『デモフォーンテ』(英語版)、『オリンピーアデ』(英語版)、『皇帝ティートの慈悲』、『シーロのアキレス』、『テミストークレ』、『羊飼いの王様』、そして最高傑作と言われる『アッティーリオ・レーゴロ』(英語版)など多数のオペラ台本を書いた。メタスタージオとその模倣者たちは、オペラ台本に、古代(ギリシア・ローマ)の古典的キャラクターが主人公のドラマを引いてきた。主人公たちには立派な価値と徳を付加し、愛・名誉・義務の間で葛藤させ、(オペラでも非音楽劇でもどちらでも上演可能な)優雅で華美な言葉をしゃべらせた。ところでヘンデルはオペラ・セリアのメインストリームとは離れたところで創作を続けていて、ロンドンの観客のためにメタスタージオの台本に曲をつけたのは数本しかなく、多様な台本を好んだ。 この時期の主要なメタスタージオ作曲家は、ヨハン・アドルフ・ハッセ、アントニオ・カルダーラ、レオナルド・ヴィンチ、ニコラ・ポルポラ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージである。ヴィンチ作曲の『捨てられたディドーネ』と『アルタセルセ』は、そのレチタティーヴォ・ストロメンタートが賞賛され、ヴィンチはこのスタイルのメロディを確立するという重要な役を果たした。対称的にハッセは、伴奏に重きをおき、当時の人々からはヴィンチより野心的と見なされた。ペルゴレージはそのリリシズムが有名だった。あらゆるものへの挑戦し、多様性、レチタティーヴォ・セッコのパターンの打破、アリア・ダ・カーポを成し遂げた。メタスタージオの台本の移り気なムードはレチタティーヴォ・ストロメンタート、リトルネロ形式のカットといった作曲家のためになる革新を行うことを助けた。この期間、特定の感情を反映するための調の選択がスタンダード化した。たとえばニ短調は「怒りの」アリアに、ニ長調は華やかさ、ト短調は牧歌的な効果、変ホ長調は愁嘆の効果に用いられるようになった。
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