16世紀末~18世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 18:00 UTC 版)
「キエフ府主教区」の記事における「16世紀末~18世紀」の解説
1596年にキエフ府主教をはじめ府主教区の主教たちのうち多くがコンスタンディヌーポリ総主教庁から離れ、ローマ教皇の傘下に入った。これをブレスト合同という。これによって正教会に属していたキエフ府主教区は東方の典礼等を保持したままローマ教皇の権威を認めるようになり、当時のポーランド法的には一旦グレコ・カトリックの管区(ウクライナ東方カトリック教会)になった。しかしこれに対する抵抗も激しく、例えばリヴィウ主教ゲデオンとプシェミスル主教ミハイロが合同に反対していた。また合同を進めたジグムント3世ですら、既に1598年に正教会の存続を確認しており、正教会の「キエフ府主教区」は存続することになる。 1620年になるとエルサレム総主教テオファンはウクライナ・コサックの依頼をうけてキエフの正教会のために新たな聖職者を按手した。1633年にポーランド・リトアニア共和国の国王の許可を得てコンスタンディヌーポリ総主教は新たなキエフ府主教区を設置した。これによってグレコ・カトリック教会に属するキエフ首都大司教区と、正教会に属するキエフ府主教区が両立するようになった。 1649年にキエフ府主教区の領域ではコサック国家が誕生すると、グレコ・カトリック系の聖職者はキエフを追われた。しかし、1660年代にコサックによるウクライナ内戦に伴い、正教会のキエフ府主教区でも争いが起こり、キエフ府主教区は独立派・親ポーランド派・親モスクワ派に分かれた。1685年に後者はコンスタンディヌーポリ総主教庁と手を切ってモスクワ総主教庁に合同を結び、ロシア正教会に所属するようになった。一方、独立派・親ポーランド派は18世紀にカトリック教会に改宗した。
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