1513年のポルトガルの情勢
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「フェルディナンド・マゼラン」の記事における「1513年のポルトガルの情勢」の解説
バスコ・ダ・ガマが初めて喜望峰回りのインド航路を開いた1499年からマゼランが帰国した1513年までのわずか14年の間にポルトガルは安定したインドへの航海ルートを確立していた。マゼランが8年の勤務を終え帰国したポルトガルは香料貿易が栄え、16世紀まで香料貿易を独占していたヴェネツィアからその地位を奪い大海洋国(ポルトガル海上帝国)としての地位を固めていた。香料貿易を独占し遠洋貿易を独占する勢いのポルトガルにはヨーロッパ中の有力商人とくにイタリア商人とドイツ商人とが取引を希望してその商権を争う状態であった。ドイツの大商人であるフガー商会はその代理人としてクリストバル・アロをリスボンにおいていた。クリストバル・アロは優れた商人であり、バスコ・ダ・ガマの喜望峰回りのインド航路発見以前、コロンブスの新世界発見の直後から西回りでのアジアへの航海ルート探索に関心を持っていた。アロはポルトガルが開拓している喜望峰回りでの東洋交易の詳細も把握し、インド交易に多額の投資を行うのに加え、アロは自身がスポンサーとなり西回りの東洋交易ルート開拓の探検隊を派遣するまでになっている。しかし、アロはイタリア人商人の中傷によってポルトガル王マヌエルの信任を失い、1516年スペインに活動の場を移す。アロは後に1519年からのマゼランの世界周航に大きな役割をはたすことになる。
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