黎明期の貴族制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 17:36 UTC 版)
エドワード懺悔王(在位:1042年 - 1066年)の代にはすでに貴族の爵位の原型があったようである。エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号"Eorl"を与えたという。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった。 確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年 - 1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた。 ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたるヒュー(英語版)に与えられたチェスター伯爵(Earl of Chester)がその最初の物である。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている。 14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった。 Baronについては13世紀から14世紀にかけて大baronのみを貴族とし、小baronは騎士層として区別するようになりはじめ、baronという言葉も国王から議会招集令状(英語版)(Writ of summons)を受けてイングランド議会に出席し、それによって貴族領と認められた所領を所有する貴族を意味するようになっていった。一方召集令状を受けない小Baron(騎士)は州裁判所を通して州代表として議会に入るようになる。
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