鵜飼山遠妙寺と石和鵜飼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/12 21:36 UTC 版)
江戸時代に鵜飼山遠妙寺に伝わった伝承によると、石和鵜飼の起源は平氏の公家であった平時忠が流刑先の能登国から逃れ、当地で漁をしたのが始まりとされている。 室町時代には、猿楽師である世阿弥により改作された能の演目『鵜飼』が江戸期の石和鵜飼伝承に似た筋書きとなっている。 笛吹市石和町市部には、上記の日蓮宗寺院「遠妙寺」が所在している。江戸時代には遠妙寺における鵜飼伝説が広まり、遠妙寺は慶長8年(1603年)の江戸幕府奉行人連書状で「鵜飼山」と称されており、江戸初期に山号を「鵜飼山」に改めていたと考えられている。また、遠妙寺には漁師・鵜飼勘助が日蓮に救われたという伝承が伝わり、勘助を祀る「漁翁堂(りょうおうどう)」が所在している。さらに、寺宝にも鵜飼伝説に関わるものがあり、「七字の経石」は鎌倉時代のものと伝わる経石で、七つの石に「南無妙法蓮華経」の七文字が書かれている。遠妙寺に伝わる「鵜飼天神像」も同じく鎌倉時代のもので、日蓮が平時忠を勧請して鵜飼天神とし、日蓮自ら開眼した像であるという。 笛吹川もかつては石和川(いさわがわ)あるいは鵜飼川(うかいがわ)とも呼ばれていたことなど、石和で古くから鵜飼が行われていたと考えられている。 江戸時代後期の天保元年(1830年)から天保5年(1834年)頃には、浮世絵師の葛飾北斎により富士山を題材とした連作『冨嶽三十六景』が刊行される。『冨嶽三十六景』に含まれる甲斐国を描いた六図には「甲州伊沢暁(こうしゅういさわあかつき)があり、甲州街道沿いの石和宿から見える富士が描かれている。中央には鵜飼川が描かれており、右手には遠妙寺門前で分岐する鎌倉街道(御坂路)の板橋が描かれている。遠妙寺は画中には描かれていないが、板橋の描かれている右手に所在している。北斎は日蓮宗を信仰しており、日蓮ゆかりの地を画題に選んだとも考えられている。
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