高倉永秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 04:13 UTC 版)
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保13年5月1日(1728年6月8日) |
死没 | 寛政11年6月11日(1799年7月13日) |
改名 | 永秀→常山(法名) |
戒名 | 究竟院深誉求道常山 |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 中御門天皇→桜町天皇→桃園天皇 |
氏族 | 高倉家 |
父母 | 父:高倉永房、母:家女房 |
兄弟 | 永秀、持明院宗時、舟橋本賢、園基衡室 |
妻 | 永井直期の娘、西洞院範篤の娘 |
子 | 永晃、永範 |
高倉 永秀 (たかくら ながひで)は、江戸時代中期の公卿。権大納言・高倉永房の子。官位は正三位・参議。高倉家16代。法名は常山。
経歴
中御門朝の享保16年(1731年)叙爵[1]。侍従、民部権大輔、右兵衛佐を経て、宝暦3年(1753年)従三位・非参議に叙せられ、公卿に列する[1]。王政復古を目指し、国学者・竹内式部の垂加神道に賛同するも、宝暦8年(1758年)の宝暦事件に連座し、右兵衛督を免官となる[2]。2年後の宝暦10年(1760年)落飾[1][2]。法名は常山[2][3]。寛政11年(1799年)薨去[3]。享年72[2]。
官歴
注釈のないものは『公卿補任』による
- 享保16年(1731年) 12月25日:叙爵(従五位下)
- 享保21年(1736年) 5月9日:元服昇殿、従五位上、侍従
- 元文5年(1740年) 2月2日:民部権大輔、正五位下
- 寛保3年(1743年) 8月29日:従四位下
- 延享3年(1746年) 12月24日:従四位上
- 延享4年(1747年) 2月1日:右兵衛佐
- 寛延3年(1750年) 正月10日:正四位下
- 宝暦3年(1753年) 正月22日:従三位、非参議。12月22日:左兵衛督
- 宝暦5年(1755年) 3月10日:遷右兵衛督
- 宝暦8年(1758年) 2月8日:正三位。7月25日:辞督
- 宝暦10年(1760年) 5月29日:落飾(法名常山[3])
- 寛政11年(1799年) 6月11日:薨去[3](享年72)
系譜
『系図纂要』による
脚注
- ^ a b c 『公卿補任』
- ^ a b c d 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典内言及, デジタル版. “高倉永秀(たかくら ながひで)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年8月3日閲覧。
- ^ a b c d 『系図纂要』
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