高倉永胤とは? わかりやすく解説

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高倉永胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 15:18 UTC 版)

 
高倉 永胤
時代 江戸時代後期
生誕 文化8年10月24日1811年12月9日
死没 弘化2年2月15日1845年3月22日
戒名 孝善院順誉守温知恩
官位 正三位非参議
主君 仁孝天皇孝明天皇
氏族 高倉家
父母 父:高倉永雅、母:不詳
兄弟 永胤長谷信篤
飛鳥井雅光の娘
永祜寿子、孝子(樋口静康妻)
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高倉 永胤(たかくら ながたね)は、江戸時代後期の公卿権中納言高倉永雅の子。官位正三位非参議高倉家20代。戒名は孝善院順誉守温知恩[1]

人物

文政元年(1818年)12月19日に従五位下に叙され、文政6年(1823年)9月23日に元服し、従五位上に昇る[2]

元服以前、永胤は仙洞御所の稚児であった。その頃、同じ仙洞の下臈であった下賀茂神社の社司の娘・乙女という女官(松下喬久の子の賀茂久子(寛政3年(1791年生まれ)か)を妊娠させ、問題となったという[3]

文政9年(1826年)1月5日に正五位下となり、文政10年(1827年)8月29日に侍従に任ぜられる。文政12年(1829年)1月25日に従四位下天保3年(1832年)1月5日に従四位上、天保6年(1835年)1月5日に正四位下となり、天保9年(1838年)1月21日に従三位に叙されて公卿に列する。天保13年(1842年)1月5日に正三位に昇る。弘化2年(1845年)2月15日、35歳で死去[2]

官歴

公卿補任』による

系譜

脚注

注釈

出典

  1. ^ 公卿補任
  2. ^ a b c 公卿補任
  3. ^ 徳田武 『朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁』(勉誠出版、2011年)[要ページ番号]
  4. ^ 『現代華族譜要』(日本史籍協会、1929年)p.519
先代
高倉永雅
高倉家
20代
次代
高倉永祜



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