高倉永胤
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化8年10月24日(1811年12月9日) |
死没 | 弘化2年2月15日(1845年3月22日) |
戒名 | 孝善院順誉守温知恩 |
官位 | 正三位、非参議 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 高倉家 |
父母 | 父:高倉永雅、母:不詳 |
兄弟 | 永胤、長谷信篤 |
妻 | 飛鳥井雅光の娘 |
子 | 永祜、寿子、孝子(樋口静康妻) |
高倉 永胤(たかくら ながたね)は、江戸時代後期の公卿。権中納言・高倉永雅の子。官位は正三位・非参議。高倉家20代。戒名は孝善院順誉守温知恩[1]。
人物
文政元年(1818年)12月19日に従五位下に叙され、文政6年(1823年)9月23日に元服し、従五位上に昇る[2]。
元服以前、永胤は仙洞御所の稚児であった。その頃、同じ仙洞の下臈であった下賀茂神社の社司の娘・乙女という女官(松下喬久の子の賀茂久子(寛政3年(1791年生まれ)か)を妊娠させ、問題となったという[3]。
文政9年(1826年)1月5日に正五位下となり、文政10年(1827年)8月29日に侍従に任ぜられる。文政12年(1829年)1月25日に従四位下、天保3年(1832年)1月5日に従四位上、天保6年(1835年)1月5日に正四位下となり、天保9年(1838年)1月21日に従三位に叙されて公卿に列する。天保13年(1842年)1月5日に正三位に昇る。弘化2年(1845年)2月15日、35歳で死去[2]。
官歴
『公卿補任』による
- 文政元年(1818年) 12月19日:叙爵(従五位下)
- 文政6年(1823年) 9月23日:元服昇殿、従五位上
- 文政9年(1826年) 正月5日:正五位下
- 文政10年(1827年) 8月29日:侍従
- 文政12年(1829年) 正月25日:従四位下
- 天保3年(1832年) 正月5日:従四位上
- 天保6年(1835年) 正月5日:正四位下
- 天保9年(1838年) 正月21日:従三位、非参議
- 天保13年(1842年) 5月5日:正三位
- 弘化2年(1845年) 2月15日:薨去(享年35)
系譜
脚注
注釈
出典
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