高倉永継
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/02 04:25 UTC 版)
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時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
生誕 | 応永34年(1427年) |
死没 | 永正7年7月12日(1510年8月16日) |
改名 | 永継→常祐(法名) |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 後花園天皇→後土御門天皇→後柏原天皇 |
氏族 | 高倉家 |
父母 | 父:高倉永豊、母:不詳 |
兄弟 | 永継、今出川教季室、永熈 |
妻 | 東坊城益長の娘 |
子 | 永康、甘露寺元長室、山科言国室、継子、光兼室、善鎮室 |
高倉 永継 (たかくら ながつぐ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。権中納言・高倉永豊の子。官位は従二位・権中納言。高倉家5代。
経歴
後花園朝の嘉吉2年(1442年)叙爵[1]。長らく散位で昇進は遅く、応仁元年(1467年)に41歳で従三位・非参議に任ぜられ、公卿に列する[2]。その後も昇進は停滞し、文明14年(1482年)56歳で権中納言に昇進[2]。文明17年(1485年)に権中納言を辞して[2]出家(法名常祐)、永正7年(1510年)薨去。享年84[1]。
官歴
注釈のないものは『公卿補任』に基づく
- 嘉吉2年(1442年) 正月某日:叙爵(従五位下)[1]
- 宝徳2年(1450年) 正月6日:正五位下[1]
- 康正2年(1456年) 正月5日:従四位上[1]
- 長禄2年(1458年) 2月13日:正四位下[1]
- 応仁元年(1467年) 4月26日:従三位、非参議
- 応仁2年(1468年) 4月15日:参議
- 文明2年(1470年) 6月7日:正三位
- 文明8年(1476年) 正月6日:従二位
- 文明9年(1477年) 12月30日:辞参議
- 文明11年(1479年) 某日:還参議
- 文明12年(1480年) 3月29日:兼備前権守
- 文明14年(1482年) 7月18日:権中納言
- 文明17年(1485年) 6月8日:辞権中納言[1]
- 永正7年(1510年) 7月12日:薨去(享年84、法名常祐)[1]
系譜
注釈
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