高倉永福とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 高倉永福の意味・解説 

高倉永福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/29 03:51 UTC 版)

 
高倉 永福
時代 江戸時代初期
生誕 明暦3年6月20日1657年7月30日
死没 享保10年4月4日1725年5月15日
改名 季任→永福
戒名 隆興院徳誉照性常光
官位 正二位権大納言
主君 霊元天皇東山天皇中御門天皇
氏族 高倉家
父母 父:高倉永敦、母:持明院基定の娘
養父:高倉永重(同母兄)
兄弟 永俊清閑寺熙房室、堅誠、秀旭室、清岡長時室、東園基量室、永元、真舜、堯什、永重永福滋野井公澄
養子:永房(永重の子)
テンプレートを表示

高倉 永福 (たかくら ながよし)は、江戸時代初期の公卿権大納言高倉永敦の子。官位正二位権大納言高倉家14代。初名は季任(すえとう)。

経歴

権大納言高倉永敦の子として誕生[1][2]。同母兄・高倉永重の養子となり、家督を継ぐ[2]。当初は季任(すえとう)と名乗った[1][2]

霊元朝寛文5年(1665年叙爵[1]延宝5年(1677年民部権大輔に任ぜられると同時に永福(ながよし)と改名する[1]貞享5年(1688年従三位非参議に叙せられ、公卿に列する[1]元禄8年(1695年参議、翌元禄9年(1696年正三位、元禄16年(1703年権中納言宝永2年(1705年従二位正徳5年(1715年正二位享保2年(1717年権大納言と順調に昇進する[1]。翌享保3年(1718年)権中納言を辞して以後は散位となり、享保10年(1725年)死去[1][2]。享年69[1][2]。戒名は隆興院徳誉照性常光[2]

甥(同母兄永重の子)の永房が家督を継いだ。

官歴

公卿補任』による

系譜

系図纂要』による

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 公卿補任
  2. ^ a b c d e f 系図纂要
先代
高倉永重
高倉家
14代
次代
高倉永房



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  高倉永福のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

高倉永福のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高倉永福のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高倉永福 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS