高倉永福
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時代 | 江戸時代初期 |
生誕 | 明暦3年6月20日(1657年7月30日) |
死没 | 享保10年4月4日(1725年5月15日) |
改名 | 季任→永福 |
戒名 | 隆興院徳誉照性常光 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 霊元天皇→東山天皇→中御門天皇 |
氏族 | 高倉家 |
父母 | 父:高倉永敦、母:持明院基定の娘 養父:高倉永重(同母兄) |
兄弟 | 永俊、清閑寺熙房室、堅誠、秀旭室、清岡長時室、東園基量室、永元、真舜、堯什、永重、永福、滋野井公澄 |
子 | 養子:永房(永重の子) |
高倉 永福 (たかくら ながよし)は、江戸時代初期の公卿。権大納言・高倉永敦の子。官位は正二位・権大納言。高倉家14代。初名は季任(すえとう)。
経歴
権大納言・高倉永敦の子として誕生[1][2]。同母兄・高倉永重の養子となり、家督を継ぐ[2]。当初は季任(すえとう)と名乗った[1][2]。
霊元朝の寛文5年(1665年)叙爵[1]。延宝5年(1677年)民部権大輔に任ぜられると同時に永福(ながよし)と改名する[1]。貞享5年(1688年)従三位・非参議に叙せられ、公卿に列する[1]。元禄8年(1695年)参議、翌元禄9年(1696年)正三位、元禄16年(1703年)権中納言、宝永2年(1705年)従二位、正徳5年(1715年) 正二位、享保2年(1717年)権大納言と順調に昇進する[1]。翌享保3年(1718年)権中納言を辞して以後は散位となり、享保10年(1725年)死去[1][2]。享年69[1][2]。戒名は隆興院徳誉照性常光[2]。
甥(同母兄永重の子)の永房が家督を継いだ。
官歴
『公卿補任』による
- 寛文5年(1665年) 12月23日:叙爵(従五位下)
- 寛文10年(1670年) 12月14日:元服昇殿、侍従、従五位上
- 延宝2年(1674年) 2月8日:正五位下
- 延宝5年(1677年) 5月24日:民部権大輔。12月26日:従四位下
- 延宝9年(1681年) 正月5日:従四位上
- 貞享2年(1685年) 5月6日:正四位下
- 貞享5年(1688年) 正月14日:従三位、非参議
- 元禄8年(1695年) 6月13日:参議
- 元禄9年(1696年) 12月28日:正三位
- 元禄10年(1697年) 12月26日:辞参議
- 元禄16年(1703年) 正月23日:権中納言
- 宝永2年(1705年) 9月11日:神宮伝奏。11月28日:辞権中納言。12月18日:従二位
- 正徳5年(1715年) 12月22日:正二位
- 享保2年(1717年) 2月25日:権大納言
- 享保3年(1718年) 3月26日:辞権大納言
- 享保10年(1725年) 4月4日:薨去(享年69)
系譜
『系図纂要』による
脚注
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