驕慢と人々の憤激
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:26 UTC 版)
「ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ」の記事における「驕慢と人々の憤激」の解説
さらにストルーエンセの態度も問題となった。彼はしばしば傲慢な権威をかさに着た態度をとったとされ、また意図的に人々を傷つける言動をとることもあった。また自分に都合のよい、矛盾した態度もあった。役人の数を削減し、その給料をぎりぎりまで削った一方で、豪奢な舞踏会や仮面舞踏会などの宮廷の遊興に多額の金をつぎ込んでおり、王をそそのかして、彼と友人のブラントに1人6万リクスダラーもする衣裳を贈らせたりもした。 失敗や強引さはあったものの、改革の初期には中流層は彼を支持していた。もし彼が賢明であったなら、反発をうまく抑え込むこともできたかもしれない。しかしストルーエンセは、人々が自分の改革を支持しているかいないかに全く興味がなかった。 デンマークの人々を最も憤激させたのは、ストルーエンセが王を完全に脇に押しやったことだった。宮廷の外では、クリスチャン7世が完全に精神疾患に冒されているとは考えられておらず、ただ常にひどい扱いを受ける中で意志が弱まってしまっただけだと信じられていた。そのためストルーエンセに対する反感はなおさらであった。1771年7月14日に、ストルーエンセを「秘密官房長官(gehejme kabinetsminister)」とし、内閣の発布する政令は王の親署がなくても王令と同等の力を持つと定めた内閣令が出されると、ストルーエンセが王をないがしろにしているという考えはますます強まった。 ストルーエンセと王妃の関係も国民の反感を買った。オルデンブルク家に対する国民の敬愛は強く、王妃カロリーネ・マティルデのおおっぴらな不道徳行為は王家を辱めるものとして非難された。 クリスチャン7世はストルーエンセの取り巻きのあざけりの的となりさがっていた。ある時、ブラントが投げかけた無礼な言葉に対して、王がむち打ちの刑を与えると脅したところ、ブラントはストルーエンセと王妃の了解を得て王を部屋に軟禁し、王が謝罪して慈悲を乞うまで拳で殴る始末であった。
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