馬部隆弘の批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 22:56 UTC 版)
馬部隆弘は、中村直勝が椿井文書について「明治三十年頃に山城国木津町に住んでおった椿井氏の秘庫中から探し出されたもの」と述べている点に関して、それは誤解であり、中村は今井家から流出した椿井文書について、流出の実態までは伝聞でしか知らなかったのであろうと指摘しているが、他方researchmapの2020年5月29日付の研究ブログでは、中村の誤解を指摘したうえで、「とはいえ、戦後歴史学のなかで中村氏が椿井文書に最も精通していたことは間違いありません。例えば「興福寺官務牒疏」が椿井文書であることはどうやらお見通しのようです。1973年発行の『カラー近江路の魅力』(坤)のなか、「南都興福寺―言わば藤原氏の勢力は平安時代中期以降、消耗して金勝寺には達せず」と明言しているからです。1441年のものという体裁をとる「興福寺官務牒疏」のなかで、金勝寺は近江における興福寺末寺の最大勢力として描かれており、1973年段階の学界ではそれがほぼ常識でした。その誤りを一般向けの本でさらっと一蹴するあたり、中村氏の卓見ぶりが伝わってきます。」と述べている。さらに馬部は、近年は自治体史について『永源寺町史』を初見として、椿井文書を偽文書として扱うものが登場すると指摘するとともに、田中淳一郎、宮崎幹也、上田長生、向村九音などによって個別の椿井文書に関する検証も進められるようになってきたとも指摘している。
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