音楽家としてのボウイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:19 UTC 版)
「デヴィッド・ボウイ」の記事における「音楽家としてのボウイ」の解説
名声を得たミュージシャンは、自分の音楽性を維持するために保守的になる場合も多いが、ボウイの場合はスタイルを変化させることで、音楽性の変化を繰り返し、それぞれの時期において変容を繰り返した。時代ごとに個性的なミュージシャン達とコラボレーションを行い、他のジャンルのアーティスト達とも積極的に交流する柔軟さも持っていた。音楽メディアから商業主義との批判も受けたが、生涯意欲的な創作を続けた。1970年代・1980年代以降のミュージック・シーンは、なにかしらボウイの音楽的影響を受けているミュージシャンも存在する。モット・ザ・フープル、イギー・ポップ、ルー・リード、ジャパンやデヴィッド・バーン、カルチャー・クラブ、ヴィサージ、スパンダー・バレエ、デュラン・デュラン、トレント・レズナーらが影響を受けてきた。また、セールス的に成功し、死後のロックスターとしての遺産はきわめて巨額だった。アーティスティックな面と、商業的利益をうまく両立させたミュージシャンとも言える。 1973年に初の日本公演を果たしている。ボウイは飛行機恐怖症であったことから、来日に際してはアメリカ合衆国から船で来日し、イギリスへの帰国の時も横浜港からナホトカ航路を経由してウラジオストクからシベリア鉄道に乗車したという逸話もある。 2000年に大英帝国勲章コマンダーを、2003年に大英帝国騎士号をそれぞれ叙勲辞退しているが、1999年にフランス政府より授与された芸術文化勲章コマンドールは受章している。
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