音楽家としてのはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 00:08 UTC 版)
高校卒業後はチンドン屋「キンギョ」(金森香らが主催)の活動に加わり、富山のチンドンコンクールにも参加するも、その活動休止後の1999年、東京芸術大学音楽学部作曲科に入学する。作曲を小鍛冶邦隆に師事。同年8月、グループ展「ンミミュ二」でのパフォーマンスを皮切りに、大学の同級生であった様々な演奏者らとともに「チャンチキトルネエド」の活動をスタートさせる。「肉体限界のスピードに挑戦」「電力がなくても音楽を奏でること」「街から得たファンタジーを街にかえす」「都市生活者の応援歌」といったメッセージを繰り出し続け、数多くの曲を作り、また本田の実験精神に呼応する若い演奏家ら(その多くは当時、東京芸術大学の学生であった)とともに、発表を始める。
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