青少年訓練キャンプの拠点として
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「清泉寮」の記事における「青少年訓練キャンプの拠点として」の解説
八ヶ岳の南麓に広がる清里高原は、標高1,000~1,900mにわたる火山斜面で、近代には原野が広がっていた。本格的な入植がはじまる1938年(昭和13年)以前の清里高原は、「念場ケ原山」と呼ばれる周辺11か村の入会林野であった。小河内ダム建設に伴う1938年の水没者28戸62人の入植を皮切りに戦時中・戦後も疎開者・引揚者などによる大規模な開拓入植が2度あった。八ヶ岳火山斜面は、pH3.0~4.2の強酸性であり、栽培できるものはソバ・アワ・ヒエ・モロコシなどの雑穀と、ライ麦・バレイショ・大豆・小豆などの自給用作物に限られていた。石灰をまいて中和しても効果はほとんどなく、栄養失調や過労で倒れる者も多かった。同じころ、アメリカ人ポール・ラッシュは聖アンデレ同胞会の夏の修養道場で「キリストの御国を日本に広げるための青年リーダーを清里で訓練したい」として1936年(昭和11年)暮れ頃から山梨県庁と用地交渉に取り掛かった。ポールは富士山が好きということもあり、当初、富士北麓の富士五湖地域での用地取得を望んでいた。しかし、適地がなく、結果として八ヶ岳南麓の県有地が1938年1月~1940年3月末まで貸与されることとなった。はじめて訪れた清里から見た八ヶ岳南麓の壮大な景色、真正面の神々しい富士山にしばらく口が開かなかったという。そして「日本聖徒アンデレ同胞会指導者訓練清泉寮キャンプ場」として青少年訓練キャンプの拠点となったのが清泉寮であった。
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