霊子療法
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明治39年、名古屋で大日本帝国青年会を結成し雑誌を創刊。蒙古探検隊に誘われたが、計画が頓挫したため、再び庵に戻り修行を続ける。明治41年、再度上京し、青年会を再興しようと活動を始めたところ逮捕され、再び故郷に戻り、明治43年に「太霊道真典」を著す。翌年上京し、東京霊理学会を設立して、呼吸法、座法、お手当て、自動運動を組み合わせた霊子療法で治療活動を始める。法服と長髪という独特の姿で、中国、朝鮮、満州、蒙古などを巡業し、霊子治療を行ない、大正2年に帰国したときは新聞で報じられた。 帰国後、催眠術、心理学、信仰などを使った精神療法を行なう者たちで組織した「東洋心理協会」に参加。大正4年(1915年)3月に岐阜県有志のすすめにより衆議院議員に立候補したが、落選した。太霊道によって人々を救おうとした守平は、大正5年(1916年)東京に「太霊道本院」を開設し、大正9年(1920年)には、故郷に「恵那山大本院」が落成した。誰でも修行で霊力を持てるとし、会員制で治療の施術や伝授を行なった。会員には、中村春二(成蹊学園創設者)、郡司成忠(軍人)、友清歓真(神道天行居)などがいた。守平は太霊道による霊的文明の建設を目指していたが、数年後大本院全焼の事件が起こり、昭和4年(1929年)12月14日、循環器障害の発作で倒れ、3日後、46歳で亡くなった。
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