零戦隊の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 02:25 UTC 版)
「ラエ・サラモアへの空襲」の記事における「零戦隊の進出」の解説
日本側は、3月18日まで第11任務部隊および第17任務部隊の索敵を行ったものの、攻撃後即座にパプア湾を離れた両任務部隊を3月10日午後に発見した程度で、その後は手掛かりを失った。ラエへの航空基地の前進は、同時にポートモレスビーをはじめとする連合軍側航空基地とオーエンスタンレー山脈を挟んで直接対峙することも意味していた。ラエおよびサラモアには3月11日以降も爆撃が繰り返され、SR攻略部隊の援護ができなかった零戦隊は、遅ればせながら3月11日から12日にかけて17機がラエに進出した。3月13日には陸上攻撃機隊もラエに進出し、この日からポートモレスビー攻撃および本格的な哨戒を開始した。 敵基地と至近になったことで損害も多くなった。3月22日にはロッキード・ハドソンとB-17、ホーカー ハリケーンの攻撃により零戦2機未帰還、5機焼失、7機被弾修理不能という大被害を受けた。4月4日には、第二十五航空戦隊がラエに進出していた第四海軍航空隊に対して航空機の分散配備などを指示した直後に戦闘機隊の銃撃を受け、戦闘機2機炎上、戦闘機8機と陸攻9機が被弾するという被害も受けている。以降、ラエとサラモアは1943年(昭和18年)3月からの連合軍の反攻により9月11日(サラモア)および9月16日(ラエ)に奪回されるまで日本軍の拠点として機能した。 もっとも、零戦隊をポートモレスビー攻撃に備えてラエに集中させたことは、ラバウルの防空が手薄になることにもつながり、ラバウルへの空襲に対しては旧式の九六式艦上戦闘機で対抗せざるを得なかった。
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