雨滝街道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:45 UTC 版)
「鳥取県道31号鳥取国府岩美線」の記事における「雨滝街道」の解説
明治時代になって道路の種別が定められるようになると法美往来は第三種道路(里道)となった。1882(明治15)年1月の臨時県議会でこの道路の改修を議決し、県道と同じ幅員(2間=約3.6m)で「ごく平坦で立派な道」として整備された。ただし12,000円あまりにのぼる改修費用は沿道40か村の負担であり、この時点では県道としては扱われていなかった。実際の工事は1883(明治16)年に鳥取の立川大橋から始まり、雨滝、十王峠、蒲生峠を経て、1889(明治22)年に兵庫県二方郡千谷村(八田村を経て現在の新温泉町)に至って完成した。 特に十王峠と蒲生峠の間では、荷馬車の通行を可能にするために十王峠の頂上からくだるルートが法美往来とは大きく変わり、銀山地区へ下りるのではなく洗井地区へ下りるようになった。1892(明治25)年には、蒲生峠に荷馬車などの通行が可能な新道が開通した。これは従前の塩谷から峠に登るルートではなく、蒲生川に沿って洗井地区の蕪島まで遡り、そこから山越えをするルートになった。この結果、洗井地区には蒲生峠を越える利用者のための商店などができて、宿場町のような賑わいを見せた。。 この道路は荷馬車や人馬の往来が頻繁だったが、県道ではなかったので、道路の補修費用などの維持費は相変わらず沿道の村が拠出しており、重い負担だった。1896(明治29)年に、鳥取に歩兵第40連隊が移転してくることになると、これを機にこの道路を県道に昇格させる運動が起きた。県議会への請願により、この年11月の議会で県道化が可決、翌1897(明治30)年に正式に県道となった。このときの建議書で「雨滝街道(雨瀧街道)」と表記されており、それ以来この県道を雨滝街道と称するようになった。。 区間・距離 立川大橋 - 兵庫県二方郡千谷村(八田村) 6里12町(約24.87 km) かつてのルート 江戸時代の法美往来は鳥取城前の擬宝珠橋が起点だったが、明治の県道・雨滝街道は立川大橋が起点となっている。擬宝珠橋・立川大橋間は、現在は主に県道323号および県道291号によって結ばれているが、現在のルートは改修や付け替えによって変わっており、江戸時代と一緒ではない。擬宝珠橋も現存せず、概ね鳥取県立鳥取西高等学校の前に位置していた。 立川大橋から宮下までは、ほぼ直線である。ただしこのうち大部分を占める、立川大橋から「奥谷入口」交差点までは、路線の付け替えによって現在は県道291号として扱われている。「奥谷入口」のあたりには、奥谷廟所(鳥取藩主池田家墓所)や宇倍神社(因幡国一宮)があるほか、一里塚があった。しかしこの一里塚は現存しない。
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