隋・唐代
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隋とそれに続く唐の時代には、律令制の確立により中央集権制は磐石のものとなった。ただし官印の制度は整理され、それまで行われていた官吏全員への印の支給を廃止し、役所への支給のみに制限することになった。 隋・唐の官印の文字は、角ばった印篆から一転し、小篆の曲線を優美にうねるような曲線に変えた独特の装飾書体が用いられた。また紙のさらなる普及により、印はすべて見やすい朱文となった。大きさも方2寸と非常に大きく、印自体の厚さも薄くなり鈕も巨大化するなど、漢印と比べるとその雰囲気は様変わりしている。この時代の形式を「唐印」と呼ぶ。
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隋・唐代
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隋初には京兆郡長官として京兆尹が設置されていたが、開皇初年に廃止されている。唐代になると開元初年に雍州が京兆尹と改称されたが、後に廃止され、京兆尹は官職制度上では消滅した。しかし、その後も京師所在地の行政長官を京兆尹と呼びならわす習慣が残された。
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隋唐代
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571年(太建3年)、李仏子が交州で自立したが、後に隋朝に帰順することを拒絶したため隋軍により捉えられ長安に護送、以降交州は隋朝の統治を受けることとなった。 唐朝が成立すると嶺南地方は交州・広州・桂州・容州・邕州の5都護府に分割され「嶺南五管」と称された。624年(武徳7年)には交州都督府と、679年(儀鳳4年)には安南都護府と改称され、以降交州は安南と称されることとなった。
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