陳錦濤
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陳錦濤 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925)
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プロフィール | |
出生: | 1871年6月20日 [旧暦]清同治10年5月初3日[1][2][注 1] |
死去: | 1939年(民国28年)6月12日[1][2]![]() |
出身地: | ![]() |
職業: | 政治家・経済学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 陳錦濤 |
簡体字: | 陈锦涛 |
拼音: | Chén Jǐntāo |
ラテン字: | Ch'en Chin-t'ao |
和名表記: | ちん きんとう |
発音転記: | チェン ジンタオ |
陳 錦濤(ちん きんとう、1871年〈同治10年〉6月20日 – 1939年〈民国28年〉6月12日)は、清末民初の政治家・経済学者。字は瀾生[1][2][3]、蘭蓀[4]。孫文(孫中山)らの南方政府側に参与することが多く、旧広西派(旧桂系)や国民軍にも加わっている。後に中華民国維新政府にも参加した。
事績
清朝での経歴
1885年(光緒11年)、香港官弁中央書院(後に維多利亜書院(ビクトリア・カレッジ)を経て、皇仁書院(クイーンズ・カレッジ)に改称)に入学した。この際に、孫文(孫中山)や温宗尭と学友になった可能性がある。1890年(光緒16年)の卒業後は教員として天津北洋大学堂につとめる。1901年(光緒27年)、アメリカに留学し、コロンビア大学で理学修士号を、エール大学で哲学博士号を取得した[1][2]。帰国後に清朝の廷試を受け、1906年10月29日(旧暦:光緒32年丙午9月5日丙午)、海外留学卒業生として法政科進士を授与された[5][6][注 2]。
以後、主に財政部門の役職を歴任し、度支部予算司司長、統計局局長、幣制改良委員会会長、大清銀行副監督などを歴任した[1][2]。1911年11月16日(旧暦:宣統3年辛亥9月26日庚寅)、袁世凱内閣で度支部副大臣に任じられたが[7]、翌月(12月)7日(旧暦:10月17日辛亥)に早くも病で辞職した(後任は周自斉)[8]。この辞職については、実は温宗尭の示唆によるものとされ、共に南下して孫文(孫中山)らの南方政府に合流している[9]。
南北両政府での活動
1912年(民国元年)1月31日、南京の中華民国臨時政府において、陳錦濤は財政部総長に任命された[10]。3月には許世英らと国民共進会を組織している[1]。9月25日、北京政府で財政部審計処総弁に任じられた。翌1913年(民国2年)10月12日、財政部駐外財政員としてロンドンに駐在する。1916年(民国5年)6月、段祺瑞内閣で財政総長外交総長署理に特任され、更に塩務署督弁も兼ねた[10]。しかし翌1917年(民国6年)4月、収賄罪により収監されてしまい、1918年(民国7年)5月に特赦された[1][2]。
その後は広州護法軍政府(南方政府)に転じ、1920年(民国9年)4月、伍廷芳の後任として財政部長に任ぜられた[1][2][注 3]。南方政府における陳錦濤は岑春煊・陸栄廷・温宗尭らの旧広西派(旧桂系)に与していたと見られる。しかし同年11月に旧広西派が敗北・失脚すると、陳も辞職して上海に隠居した[1][2]。
1925年(民国14年)、馮玉祥を頼って陳錦濤は西北へ赴いた。陳は国民軍に加わり、察哈爾省で西北銀行総理となる[9]。北京政変(首都革命)後の同年12月、段祺瑞の下で再び財政総長として起用され、塩務署督弁や関税特別会議全権代表を兼ねたが、翌1926年(民国15年)3月4日に早くも辞任した[10]。同年、天津での中国無線電業公司の合弁に参加している[1][2]。
国民政府での活動
1927年(民国16年)、陳錦濤は杭州に移ったが、中国共産党の排斥を受けてしまう。更に蔣介石派からは武漢国民政府への通謀を疑われ、褚輔成らと共に収監されてしまった[9]。
1930年(民国19年)、陳錦濤はようやく釈放され、清華大学経済系教授兼財政部幣制研究委員会主席となる。1935年(民国24年)にも財政部幣制委員会主席をつとめている[1][2]。また、全国経済委員会委員[9]や国難会議会員[10]としても招聘された。
中華民国維新政府での活動
温宗尭との関係性もあって、陳錦濤は華中での親日政権樹立工作に参与している。1938年(民国27年)3月28日、梁鴻志を首脳とする中華民国維新政府が創設されると、陳は財政部長に特任された[11]。しかし、この頃の陳は体調が悪化しており、執務をこなすのが困難な状況であった。
翌1939年(民国28年)4月1日、陳錦濤は病状悪化によりついに休職に入り、財政部次長の厳家熾に部務代理を委ねた[12]。翌月(5月)13日には、新設された華興商業銀行総裁を兼任することになったが、休暇後の就任という条件が付され、実際に執務はできずに終わる[13]。
1939年(民国28年)6月12日、上海にて病没。享年69(満67歳)[1][2]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 徐主編(2007)、1493頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 財政部財政史料陳列室・財政人物索引(中華民国(台湾)財政部ホームページ)記事。
- ^ a b 劉ほか編(1995)、1399頁。
- ^ 周編著(2000)、59頁。
- ^ 『清史稿』本紀二十四徳宗本紀二、二十五。
- ^ 『清実録』大清徳宗同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寛勤景皇帝実録巻之五百六十四、八。
- ^ 『清実録』大清宣統政紀巻之六十四、十三。
- ^ 『清実録』大清宣統政紀巻之六十六、六。
- ^ a b c d 外務省情報部編(1938)、20-22頁。
- ^ a b c d 中華民国政府官職資料庫「姓名:陳錦濤」
- ^ 維新政府令、民国28年3月28日(『政府公報』第1号、民国27年4月11日、維新政府行政院印鋳局、4頁)。
- ^ 維新政府令、民国28年4月1日(『政府公報』第49号、民国28年4月10日、維新政府行政院印鋳局、1-2頁)。
- ^ 維新政府令、民国28年5月13日(『政府公報』第55号、民国28年5月22日、維新政府行政院印鋳局、1-2頁)。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 「陳錦濤」(財政部財政史料陳列室・財政人物索引)中華民国財政部ホームページ(台湾)
- 外務省情報部編『支那新政府要人録』東亜同文会、1938年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』甘粛人民出版社、1990年。 ISBN 7-226-00582-4。
- 周家珍編著『20世紀中華人物名字号辞典』法律出版社、2000年。 ISBN 9787503628320。
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