長野温泉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 05:51 UTC 版)
極楽寺温泉が閉鎖し、荒廃されるがままとなった源泉を1960年(昭和35年)に長野町観光協会が主体となって極楽寺より温泉権利の譲渡をうけ、大阪府河川課より河川敷使用の許可を得て、翌1961年に大阪府温泉審議会の開業許可を取った。これを、朝日新聞など新聞5社が「河内長野に温泉郷・公衆大浴場も誘致へ」といった見出しを掲げ注目された。 約40年間放置されていた噴出口は使用できなかったため、掘り下げて深さ5m、長さ6m、横3mの集水池に拡張され、温泉組合の楠翠閣、八重、河鹿荘、尾花、宝亭、三陽荘、青柳の7棟に配管供給を開始した。 長野温泉加盟店は、1964年に楠翠閣(菊水の湯)、河鹿荘(かじかの湯)、八重別館(八重の湯)、おばな館(正竜の湯)、喜楽(黄金の湯)・たから亭(宝の湯)の6棟になり、翌1965年7月には楠翠閣がなくなり5棟となっている。 温泉街として栄えたのは、この時期を最後に現在まで衰退の一途をたどっている。当時の多くの温泉旅館は廃業し、住宅街に形を変えたりしたが、現在は「おばな旅館」や「八重別館」など一部旅館が残っているほか、温泉旅館としては河内長野荘が経営を続けている。
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