長野氏家臣・分部氏を継ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 02:19 UTC 版)
「分部光嘉」の記事における「長野氏家臣・分部氏を継ぐ」の解説
天文21年(1552年)、伊勢国の豪族・細野藤光の次男として誕生。細野氏は中勢地域に勢力を張っていた長野氏(長野工藤氏)の一族である。天文21年(1552年)、同じく長野氏の一族であった分部光高の養嗣子となり、光高の養女(実は光高の妹)を娶った。 長野氏は永禄元年(1558年)に北畠氏から長野具藤を養子に迎え、北畠氏の傘下に入っていたが、永禄11年(1568年)に織田信長が伊勢に侵攻してくると、対応をめぐって長野家中は分裂することとなった。養父の光高は信長に通じ、信長の弟(後の織田信包)を長野氏の養子に迎えた(長野信良を称するが、のちに織田に復姓している。本項では以下「織田信包」とする)。翌永禄12年(1569年)、光高は織田軍の一員として北畠攻めに参加して戦死した。『寛政重修諸家譜』によれば、永禄10年(1567年)3月16日の羽野合戦において光高は戦死、16歳の光嘉は2か所の傷を受けながら戦功を立てたという。
※この「長野氏家臣・分部氏を継ぐ」の解説は、「分部光嘉」の解説の一部です。
「長野氏家臣・分部氏を継ぐ」を含む「分部光嘉」の記事については、「分部光嘉」の概要を参照ください。
- 長野氏家臣・分部氏を継ぐのページへのリンク