鉄薬莢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 15:15 UTC 版)
1941年(昭和16年)、鉄薬莢の整備に関しては九二式歩兵砲および四一式山砲用として既に開始されていたが、大量生産の見地からは未だ完璧とは言えなかった。薬莢資源の確保という観点から、鉄薬莢の全面的な採用は焦眉の急であり、まずは十糎榴弾砲以下の火砲用および7.7mm実包用について研究を行なうものとした。鉄薬莢の研究は陸軍兵器行政本部、第一陸軍技術研究所、第八陸軍技術研究所、東京第一陸軍造兵廠、名古屋陸軍造兵廠、大阪陸軍造兵廠、そして各民間会社等で連携して行なわれた。7.7mm実包用鉄薬莢の研究に当たっては、当時既に鉄薬莢を大量生産していたドイツのポルテ社に技術者を派遣し、実習を受けさせる等の努力を重ねた結果、遂に量産化に至った。 鉄薬莢は地金の性質上、黄銅薬莢に比べ抽筒機能が劣るため、一時的な応急策として装薬を0.2g減装し、部隊に対して薬莢への塗油を励行する様指導した。また、鉄薬莢は黄銅薬莢に比べ発錆しやすく、これがさらに抽筒不良を助長した。この対策として内缶に収容する等の対策を講じたが、資材の不足等により十分実施できなかった。 1945年(昭和20年)度の小火器調達計画における調達予定数は、黄銅薬莢の九九式普通実包(以下『九九普(銅)』と表記)7,700万発に対し、鉄薬莢の九九式普通実包(以下『九九普(鉄)』と表記)2億6,000万発であった。また、名古屋陸軍造兵廠においては、1943年(昭和18年)度に九九普(銅)3,480万発に対し、九九普(鉄)135万発、1944年(昭和19年)度に九九普(銅)9,460万発に対し、九九普(鉄)2,130万発、1945年(昭和20年)度に九九普(銅)2,846万発に対し、九九普(鉄)80万発が実際に生産されている。
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