重衡との再会と別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 20:53 UTC 版)
重衡は南都大衆からひどく憎まれており、源頼朝に引き渡しを要求していた。同年6月に源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立し奈良へ送られた。 罪人なので京には入らず、大津から山科を経てる醍醐路を通り、日野の近くに差しかかった時、重衡は護送の武士に「私には子がないので思い残すことはないのですが、この近くに妻がおりますので今一度対面して後生のことなど申し伝えておきたいのです」と最後の情けを願い、武士たちも涙してこれを許した。屋敷まで来て人に呼びにやらせると輔子は駆けつけて重衡と対面した。 輔子は「夢かうつつ(現実)か」と涙を流して招きいれ、重衡はこれまでのことを物語りして、出家して髪を残したいがそれも叶わないのでと額に垂れた髪をひと房噛み切って輔子に渡し形見とした。輔子は「(壇ノ浦で)入水して死ぬべき身でありましたが、貴方が生きていると聞き、今一度お姿を見ることもあるかもしれないと願い生き長らえてきました」と涙を流した。輔子は重衡を白の狩衣に着替えさせ、それまで着ていたものも形見とし、最後に別れの歌を交わした。 重衡は「契りあれば来世にあってもまた逢えるでしょう」と言い残して、立ち去った。 輔子は後を追おうとしたが叶うことではなく、大声で泣き伏し、その声を聞いて重衡は駒を進めることもできずに泣き、なまじ逢うべきではなかったかと後悔もした。 重衡は東大寺の使者に引き渡され、木津川の川べりで斬首され、般若寺門前で梟首された。 重衡と輔子との再会と別れは『平家物語』の重要な場面の一つとなっている。
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