重衡生け捕り もう一つの伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:20 UTC 版)
「庄忠家」の記事における「重衡生け捕り もう一つの伝承」の解説
忠家は範頼軍に従い、一ノ谷城を攻め、生田森に向かうと、平家の大将三位中将重衡は戦に敗れて、西へ敗走した。忠家はこれを追い、明石浦において生け捕る。源頼朝は、この功を特に賞して、陸奥の所領を与えた(『武蔵国児玉郡誌』より)。 『平家物語』では、弟の高家が重衡を捕えたと記述されており、『吾妻鑑』には、兄家長が重衡を捕えたと記載されている。研究者の間では備中国草壁庄の地頭職を与えられた家長が平重衡を捕えたと見ている(与えられた所領の面から)。 文献記録(系図)上、確かに庄氏一族の中に、陸奥国河沼郡へ移住した記述が見られ、忠家の血筋の者が東北へ移住したものと見られる(陸奥の所領を与えられたとする伝承はあながち疑えない)。
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