部制の解消
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 17:20 UTC 版)
ホーリネス事件をきっかけとして部制が解消される。1942年11月に開かれた第一回教団総会に部制解消の議案が提出されて、満場一致で可決された。こうして部制は解消され、地域ごとの教区制度に変更された。3月9日の「部制廃止特別委員会」では、富田満統理は、部制を解消する前に信条を制定することは容易ではないので、部制解消後に、信条問題を考えるべきだとしていた。しかし、第二次世界大戦のただ中で、日本におけるキリスト教信仰そのものが危機的な状況にある中、合同教会としての内容を充実させることは望むべくもなく、教団は戦時体制への協力にもっぱら励んだ。国家統制のために、部制廃止は国家の要求するところであった。 教団の部制は「非日本的なもの」として日本政府に問題視されており、部制の廃止が日本基督教団認可の条件であった。1941年11月に富田満統理は、文部大臣に1年から3年以内の早期に部制を解消するという誓約書を提出し、政府と密約を結んでいたが、この密約は当然ながら知られておらず、日本基督教会の神学的指導者松村克己牧師は、部制を解消しても、教団が完全な合同を実現することは出来ず、これには少なくとも1世代30年を要すると考えていた。 なお、1943年には、独自の宗教団体設立を望みながら、イングランド国教会との関係や主教制度のために認められなかった日本聖公会から、約60教会が単立教会として参加している。 一方、部制廃止を受け、岡田稔(後の日本キリスト改革派教会の創立者)の牧会する灘教会(現:日本キリスト改革派灘教会)は、1943年3月の時点でいち早く日本基督教団を離脱し、一教会で単立教会となった。
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