通信士取得まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 17:09 UTC 版)
石川県金沢市野町で生まれた。父 又二郎(旧姓佐々木)は富山県東砺波郡野原の出身で、祖父の越中屋又次郎は金沢で米穀商を営んでいたが、養子である又二郎の時、金沢市野町1丁目6番地に移り筆墨商をわずかに営んでいた。店は今の犀川大橋のたもとにあり、近くに住んでいた室生犀星とも一緒に遊んでいたという。子供の頃から優秀で字も上手だったので金沢野田山にあった米村家墓石の字は子供の嘉一郎が書き上げたという事で残っていた。旧制石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)に進学する。 14歳の時には弟彦二や仲間と同人誌を作り、号は琴音と称し文章だけでなく、絵など多彩な才能を見せている。 金沢第一中学校三年終了後、金沢郵便電信局有線電信士となっていたが、逓信省の逓信官吏練習所東京郵便電信学校通信科に入学。1902年(明治35年)3月には通信科を第3期で卒業し、その後金沢通信伝習生養成所の主任教官をしていた。1907年(明治40年)8月に逓信省が無線電信局の開設のために希望者を募集した際、それに応じた。1908年(明治41年)5月専修科無線電信通信科を第一期として卒業した。同年、国際無線電信条約が実施される。これに伴い、この年の5月16日に千葉県銚子に日本最初の海外無線電信局が、また船舶においても東洋汽船の新造客船天洋丸に船舶局が設置される。これが日本で最初に公衆通信に電波を利用した事例である。嘉一郎は日本で最初の船舶無線通信士となった。
※この「通信士取得まで」の解説は、「米村嘉一郎」の解説の一部です。
「通信士取得まで」を含む「米村嘉一郎」の記事については、「米村嘉一郎」の概要を参照ください。
- 通信士取得までのページへのリンク