近鉄バファロー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:39 UTC 版)
「大阪近鉄バファローズ」の記事における「近鉄バファロー時代」の解説
1959年 5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。チーム39勝は、最多勝の南海の杉浦忠の38勝より1勝多いだけであった。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツから移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日に千葉茂が途中休養、代行監督に林義一が就任するが、オフに千葉が監督復帰する。 1960年 43勝87敗1分で首位の大毎と39ゲーム差の最下位。 1961年 日本プロ野球シーズン最多記録となる103敗を記録。首位南海とは51.5、5位阪急とも18.5ゲーム差をつけられ、チームの勝ち星は1958年に続き、稲尾和久の42勝に届かぬ36勝に終わった。新人の徳久利明が15勝を挙げ球団初の新人王を獲得する。1958年から4年連続でチームは160失策以上を記録し、チーム38盗塁は2リーグ制以降、当時の最少記録となっている。シーズン終了後、千葉茂が監督を更迭、別当薫が就任。 後年、この当時の事情を千葉茂はなかなか語ろうとしなかったが、1997年ごろに語ったところによれば「巨人で20年やってきたことがすべてひっくり返った」と述べ、「選手もプロ意識は低かったが、親会社の体質にも問題があった」とし、当時三等車だった列車での移動を西鉄並の二等車にしてほしいと頼めば、球団に「15人だけにしてほしい」と言われたとされる。一方の選手は西鉄の稲尾和久や南海の杉浦忠などが登板することが分かると、高熱や腹痛などの仮病を使って試合を欠場したとも述べている。
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