資本形態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 09:32 UTC 版)
蓬萊社の資本形態は日本初ではないものの、資本金に対して株券を発行したことと、今でいう「優先株式」「劣後債」に近い概念を導入したこと、株主の有限責任制を導入したこと、資本と経営の分離を考えていたことなどで明治初頭としては先進的な形態を持っていた。 日本では日本国郵便蒸気船会社などはすでに出資資本金に対して株券を発行し株式譲渡の自由性を確保していたが、明治初頭には株券を発行し株式譲渡の自由性を確保することはまだ一般的とは言えなかった。蓬萊社では1株を100円とし株券を発行していた。 蓬萊社では出資金250万円の半分を分益券、残り半分を保安券としていた。分益券は出資に対して利子を保証せず営業利益から配当を行ったものである。それに対して保安券は営業利益に関わらず年に8%の配当は約束するが、営業利益からの配当は分益券の半分で、つまり保安券は会社が利益を上げられなくとも最低限8%の配当は期待できるものの、会社が大きな利益を上げても分益券ほどの高配当は得られないものであった。逆に分益券は営業利益がなければ配当はないものが、営業利益が大きければ大きな配当を得られたものであった。保安券はまた会社解散に当たっても元本を保証されていた。いわば、分益券はハイリスク・ハイリターン、保安券はローリスク・ローリターンに近いものであったと思われる。 蓬萊社の特徴として出資者は有限責任制でつまり蓬萊社が債務超過で破たんしても出資金以上の損失は被らない。有限責任制は現代では普通のことであるが、明治初頭においては画期的な形態である。 また、蓬萊社は関係者の間での相異なる役割分担によって特徴つけられる会社であった。すなわち、旧大名の出資者は経営の実務に当たらない持ち分資本家、後藤ら士族は出資金は少ないものの経営管理者として、商人たちは資本を提供するとともに士族には不得手な商業実務の知識を提供する実務経営者という、それぞれの役割を果たしていた。
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