貿易競争の沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 17:49 UTC 版)
紡績産業が原料とする綿花の生産にはかつて奴隷が多く使役されイギリスが最大の輸出国であったが、1838年にイギリスで奴隷制度が廃止されたおり、1841年にリヴァプールにおいてリヴァプール綿取引協会が設立された。一方日本は、商社の日本綿花株式会社による原料綿花の調達、終夜営業の紡績工場、1日14時間の過酷工場労働により紡績業が発展し、1912年には紡績業が国内産業の5割を占めるほどであった。 1924にはアメリカでロバート・ウェイル(英語版)を代表とする米国綿貿易協会(英語版)が設立された。1929年から5年間の大恐慌の影響もあり、同団体はアメリカの綿製品業を保護するため、日本などの綿製品に対し新たな関税障壁を設ける必要性を訴えた。1937年、米国綿貿易協会は使節団を日本に送り、日本とのあいだに日本の綿製品の輸出量制限を課す民間の「日米綿業協定」の仮調印を行い、2月に全協会が承認。これにより1937年から2年間の日本企業の対米綿布輸出量は2億5500万平方メートルまでと規定され、代わりに関税による障壁は置かれないこととなった。ただし、同年夏には日中戦争が始まり、秋には日本が原料棉花の輸入許可制を敷いて綿花輸入量を統制し始めたため新たな摩擦も生じた。1938年にはアメリカにおいて全国綿業協議会 (アメリカ合衆国)(英語版)が設立された。1940年には日米通商航海条約が廃棄された。
※この「貿易競争の沿革」の解説は、「日米繊維交渉」の解説の一部です。
「貿易競争の沿革」を含む「日米繊維交渉」の記事については、「日米繊維交渉」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から貿易競争の沿革を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から貿易競争の沿革 を検索
- 貿易競争の沿革のページへのリンク