議会政治・自由民権運動について
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「福澤諭吉」の記事における「議会政治・自由民権運動について」の解説
諭吉は明治12年(1879年)の『民情一新』の中で、「現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていくイギリスの政党政治・議会政治を大いに参考にすべし」と論じた。国会開設時期については政府内で最も強く支持されていた「漸進論に賛成する」と表明しつつ、過度に慎重な意見は「我が日本は開国二十年の間に二百年の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利用して然るものなり」「人民一般に智徳生じて然る後に国会を開くの説は、全一年間一日も雨天なき好天気を待て旅行を企てるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の世に在りて十二年前の王政維新を尚早しと云はざるものは、又今日国会尚早しの言を吐く可きにあらざるなり」として退けている。 ただし、諭吉は国内の闘争よりも国外に日本の国権を拡張させることをより重視し、「内安外競」「官民調和」を持論としたため、自由民権運動に興じる急進派には決して同調せず、彼らのことを「駄民権論者」「ヘコヲビ書生」と呼んで軽蔑し、その主張について「犬の吠ゆるに異ならず」と批判した。『時事小言』の中で諭吉は「政府は国会を開いて国内の安寧を図り、心を合わせて外に向かって国権を張るべきこと」を強調している。 また諭吉が明治14年(1881年)にロンドンに滞在している慶應義塾生の小泉信吉に送った手紙には「地方処々の演説、所謂ヘコヲビ書生の連中、其風俗甚だ不宜(よろしからず)、近来に至ては県官を罵倒する等は通り過ぎ、極々の極度に至ればムツヒト(=明治天皇)云々を発言する者あるよし、実に演説も沙汰の限りにて甚だ悪しき兆候、斯くては捨置難き事と、少々づつ内談いたし居候義に御座候」と書かれており、皇室への不敬な姿勢などの自由民権論者の不作法も許しがたいものがあったようである。
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