訃報への反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:15 UTC 版)
「(当時の)師匠と折り合いが悪かっただけ。実際接すると普通の人だった」と角界関係者からも死去を惜しまれた。しかし、琴ヶ梅によると、死去する前に同期の誰にも知らせなかったという。 7代立浪は、立浪部屋のアドバイザーについて「交流はその時(2003年の就任時)の一瞬で、その後は連絡を取っていなかったから、最近の様子は知らなかった」と発言している。故郷の津市のスポーツ振興課も交流が無かったため死去が伝えられるまで「相撲協会に入っておられない方ですので」と何も関知しておらず、立浪部屋力士すらも2月下旬に死去の噂を聞いた際に嘘だと思っているほどであった。 Uインターで北尾と対戦した高田延彦は「いつか再会して言葉を交わしたかった」と早すぎる死を悼み、格闘技塾「北尾道場」で指導を受けた望月成晃も「驚きました。20年以上も連絡を絶ったままだったので…」とコメントしている。 力士時代に同じ立浪・伊勢ヶ濱連合(現在の伊勢ヶ濱一門)で稽古を共にし、プロレス加入後には対戦経験のあった維新力浩司は、北尾の亡くなる約10年前にプロレスのイベントへの参加を求めた時、「もう自分は表舞台には出ないと断られた」ことを明かしている。また「体調もあったかもしれないが、増えた家族を大切にしたかったのかな。幸せな時間もあったのでは」と故人を偲んだ。 プロレス時代の番記者であった元東京スポーツ記者の柴田惣一は、北尾の結婚披露宴は豪華なものであったが招待客に角界関係者はほとんど見かけず、二次会に至っては夫人の招待客である医療関係者ばかりで新郎側は自分だけだったと述懐し、「確かに誤解されやすい一面もあった。残念至極である」「決して話のわからない人ではなかったのだが…」とプロレスTODAYのコラムに綴っている。
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