解体過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 08:23 UTC 版)
民科の指導部は実質的に日本共産党の影響下にあったが、発足当時の民科では共産党の政治的指導はゆるやかであった。1950年代に入ると日本共産党(所感派)の手で、民科内部に政治的課題が持ち込まれた。1952年に民科書記局員だった石母田正は「国民的科学の創造」を提唱し、民科の路線も「国民的科学の創造と普及」を目的としたものに変化する。政治と科学の結合をめざした運動中心の考え方は、共産党と無縁な学者や学生の離反をもたらした。1955年、共産党が六全協で路線転換を行うと、民科指導部も混乱して求心力をうしなった。1956年、ソビエトでのスターリン批判にともない、民科が支持していたミチューリン農法の正当性が否定されたことも大きな打撃となった。科学者・研究者からの支持を失い指導部も混乱した結果、機関誌「国民の科学」は停刊し、1950年代末から1960年代前半頃にかけて大部分の部会は実質的に解体した。1956年の第11回全国大会開催を最後に民科本部としての正常な運営体制が崩壊し、翌1957年に本部事務所を閉鎖、事務局を解散した。その後一部の部会は独立した研究団体となり、活動を続けた。しかし、弱体化・解体の最大の要因は財政問題であると、柘植正臣は述懐している(柘植『民科と私』勁草書房)。
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