西ゴート族侵入からローマ略奪までとは? わかりやすく解説

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西ゴート族侵入からローマ略奪まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 10:25 UTC 版)

ローマ略奪 (410年)」の記事における「西ゴート族侵入からローマ略奪まで」の解説

375年フン族脅かされ西ゴート族ドナウ川越えローマ帝国領域侵入した。一旦この移住容認したローマ帝国側だが、378年皇帝ウァレンス在位 364年 - 378年)はこれを撃退することを決意しハドリアノポリスの戦い訴えるが、ローマ軍敗退し皇帝殺されるウァレンスの後を継いだ皇帝テオドシウス1世在位 379年 - 395年)は、382年西ゴート族和平条約を結び、同盟者として帝国内に定住することを認めた詳細は「ゴート戦争 (376年–382年)」を参照 395年テオドシウス1世没し帝国が2分され東ローマ帝国初代皇帝となったアルカディウス在位 395年 - 408年)は、先帝結んだ西ゴート族への給付金約束違えた。これに対して西ゴート族新たにとなったアラリック1世在位 395年 - 410年)のもと反乱を起こすアラリック1世率い西ゴート族軍勢は、395年よりバルカン半島の諸都市襲撃し莫大な賠償金を得る。その阻止向かった西ローマ帝国将軍スティリコ追撃を躱(かわ)したアラリック1世は、400年イタリア半島北部軍勢進める。西ローマ帝国初代皇帝ホノリウス在位 395年 - 423年)はミラノ宮殿捨ててラヴェンナ避難したが、再びスティリコにより西ゴート族撃退される406年ゲルマン民族のうちヴァンダル族アラン族スエビ族ライン川越えて西ローマ帝国ガリア侵入し略奪行いイベリア半島向かった408年スティリコ処刑したホノリウス帝はアラリック1世に対して講和同盟軍に加わることを求めとともにアラリック1世対し賠償金を払うことを約束した。しかし、この講和条件拒否しアラリック1世は再びイタリア半島襲撃する

※この「西ゴート族侵入からローマ略奪まで」の解説は、「ローマ略奪 (410年)」の解説の一部です。
「西ゴート族侵入からローマ略奪まで」を含む「ローマ略奪 (410年)」の記事については、「ローマ略奪 (410年)」の概要を参照ください。

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