裸参りの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 00:37 UTC 版)
『仙臺始源』(安永 - 文化年間成立)に「木下薬師の通夜 木下祭祀の事は三月にあり堂塔の眞圖は爰に出す正月七日の夜諸人群をなして木下薬師に賽す是を七日堂と云通夜する者多し夜籠りといふ寒候薄衣を着て詣る者ある裸参りといふ」とある記述が仙台周辺の「裸参り」の初出とされる。 1849年(嘉永2年)刊行の二世十遍舎一九(著)『奥羽一覧同中膝栗毛』第四篇に掲載された仙台の年中行事(別名『仙臺年中行事大意』)の中には「十五日。大崎入幡宮。十四日夜 より参詣群集す。 この日、門松を入幡の社内にて焚失るなり。」 という記載がある。さらに、1850年(嘉永3年)頃成立と推定される『仙臺年中行事絵巻』の『正月風俗の図』には、注連縄と鉢巻きだけの男性3人(それぞれ、鐘・三方・「菅原」と書かれた桶を持参)の絵と「裸まうて(で)」という注書きが記されており、これらの資料から1840年代後半には「裸参り」が実施されていたと考えられている。『仙臺年中行事絵巻』の絵にある桶に書かれた「菅原」が国分町にあった造り酒屋「菅原家」と推定されることなどから、2006年の仙台市教育委員会作成の資料では、「裸参り」をしていたのが酒屋または杜氏であることは「ほぼ確実であろうと見られている」と記している。 前記仙台市教育委員会資料は、「仙臺では十四日から暁かけて大崎八幡宮に松焚祭を執行され、みちも社もうずまるばかりの盛況である、中にも数百人の裸体詣りが神鈴を鳴らして雪を踏んで寒中の中を進むのが威勢よく見られる、これらを暁詣でといふてゐる。」という郷土資料の記述から、「酒屋の安全祈願」であった「裸参り」が「暁詣で」(アカツキモウデ)という民衆習俗と習合した「『参拝行事』の一形態 と化していった」としている。
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