被葬者と造営年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 14:38 UTC 版)
円筒埴輪の型式や一部採集されている須恵器の型式、最近の考古学的な暦年代研究、年輪年代測定法による調査結果からも、5世紀の第1四半期と推定される。被葬者は、「倭の五王」のうちの「讃」を誰にあてるかで変わってくる。この古墳は、古くから応神天皇の陵墓であるとの伝承を持つが、応神天皇の治世を、『古事記』の崩年干支が甲午(394年)であることから井上光貞は370年頃から390年頃と想定したが、この説を採用すると年代が合わない。直木孝次郎は『日本書紀』応神紀と『三国史記』から百済阿莘王・腆支王との同時代性から4世紀末から5世紀初頭としており、これならば年代的には整合するし、資料解釈の方法自体にも説得力がある。総じて誉田御廟山古墳が応神天皇陵である蓋然性は高いといわなければならないが、そのように想定した場合、大仙陵古墳の被葬者が仁徳天皇であるとする比定の蓋然性は高くなるものの、古市古墳群の仲ツ山古墳、百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳、古市の誉田御廟山古墳、百舌鳥の大仙陵という大阪平野南部における古墳編年と、仁徳・履中・反正と3代続いた大王が全て百舌鳥に陵墓を造営したという記紀伝承との間に矛盾が生じるし、従来の古墳の治定にも不整合が生じるという別の問題が発生し、また、井上光貞、上田正昭、直木孝次郎らがかつて唱えた河内政権論は成り立ちがたくなる。
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