藤原顕家 (小野宮流)とは? わかりやすく解説

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藤原顕家 (小野宮流)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/05 07:58 UTC 版)

 
藤原顕家
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 万寿元年(1024年[1]
死没 寛治3年12月22日1090年1月25日
別名 六条大弐[1]
官位 正三位参議
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
藤原寛子(皇后宮職)
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原経通
母:源高雅の娘(経平母の妹)
兄弟 源経仲経季経平顕家、藤原範輔室
源頼国の娘
基実、頼慶
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藤原 顕家(ふじわら の あきいえ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿藤原北家小野宮流権中納言藤原経通の四男。官位正三位参議

経歴

後一条朝末の長元7年(1034年従五位下叙爵。後朱雀朝にて、右衛門佐少納言を歴任し、長暦3年(1039年)従五位上、長久5年(1044年正五位下と昇進した。

寛徳2年(1045年後冷泉天皇践祚すると、顕家は五位蔵人右近衛少将に任ぜられ、天皇の身近に仕える。その後も、永承2年(1047年従四位下、永承5年(1050年)従四位上、永承6年(1051年)左近衛少将と、後冷泉朝前半は近衛少将を務めながら昇進を重ねる。天喜4年(1056年正四位下皇后宮権亮に叙任されて、皇后藤原寛子に仕える。康平元年(1058年)右中弁を兼ねると、康平2年(1059年蔵人頭、康平5年(1062年)権左中弁と後冷泉朝後半は弁官を務めながら昇進を重ねた。

康平6年(1063年従三位参議に叙任されて公卿に列すが、京官の兼官を解かれ讃岐権守のみを兼帯した。後冷泉朝末の治暦3年(1067年正三位・大宰大弐に叙任されて大宰府に赴任する。後三条朝末の延久3年(1071年)大宰大弐を辞すと、翌延久4年(1072年)11月に全ての官職を辞した。

寛治3年(1090年)12月22日薨去享年66。最終官位は前参議兼大宰大弐正三位。

官歴

公卿補任』による。

系譜

脚注

  1. ^ a b 『公卿補任』
  2. ^ 『近衛府補任』

参考文献

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
公職
先代
藤原師成
大宰大弐
1067 - 1071
次代
藤原良基



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