藤原永範とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 藤原永範の意味・解説 

藤原永範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/09 04:45 UTC 版)

 
藤原 永範
時代 平安時代後期
生誕 康和2年(1100年
死没 治承4年11月10日1180年12月5日
官位 正三位宮内卿
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇
氏族 藤原南家貞嗣流
父母 父:藤原永実、母:中原師平の娘
兄弟 尹隆、永範
大江行重の娘
範貞、光範、頼資、範良、業範、因範
養子:孝範
テンプレートを表示

藤原 永範(ふじわら の ながのり)は、平安時代後期の公卿学者藤原南家貞嗣流大内記・藤原永実の次男。官位正三位宮内卿後白河二条高倉の3代にわたり御侍読を務めた。

経歴

白河院政期後期の元永元年(1118年文章得業生に補せられる。保安4-5年(1123-1124年)の間に叙爵。この間に大学権助左衛門尉を務めた。

献策により保延2年(1136年正五位下、保延5年(1139年従四位下天養2年(1145年従四位上と昇進し、同年12月に文章博士に補せられる。鳥羽院政期後半の仁平3年(1153年藤原南家出身者では初めて式部大輔に任ぜられ、久寿2年(1155年後白河天皇御侍読を務める一方で、保延7年(1141年越中介久安3年(1147年伊予権介、仁平4年(1154年加賀介保元2年(1157年石見守と地方官も歴任した。保元2年(1157年)10月、陰明門陣屋造営の功労により正四位下に叙せられる。永暦2年(1161年)2月に任期満了のため石見守を去り、同年3月二条天皇の御侍読を務める。長寛2年(1164年)に大宰大弐を兼ねる。

永万2年(1166年)には東宮・憲仁親王の東宮学士も兼ねる。2年後の仁安3年(1168年)憲仁親王が践祚高倉天皇)すると天皇即位及び東宮学士の功労により従三位に叙せられ、貞嗣流では尹忠以来182年ぶりに公卿に列した。嘉応元年(1169年宮内卿に任ぜられ、承安3年(1173年正三位に昇進する。承安5年(1175年播磨権守治承4年(1180年)27年余り務めた式部大輔を辞し、同年10月出家、11月10日に薨去。享年81。

官歴

公卿補任』による

系譜

脚注

  1. ^ a b c 公卿補任
  2. ^ a b c d e f g h i j 尊卑分脈
  3. ^ a b c d e f g h i j 系図纂要



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  藤原永範のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原永範」の関連用語

藤原永範のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原永範のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原永範 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS