蓬萊米の品種改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 09:54 UTC 版)
台湾総督府台中試験場における末永仁技手は、在来米の品種改良中に「稲の老化防止法」を発見し、これをジャポニカ種である日本種に行い、未熟な苗を挿秧’(田植え)したところ良い結果をえた。この苗を「若苗」と命名し、磯技師が科学的検証を加えC/N比(窒素率)にのよる「若苗理論を」を完成させた。これによって、平地における内地種米の栽培が台湾にて可能になった。この「若苗理論」によって、多くの日本種が栽培され、日本へ輸出された。そこ大正15年、大日本米穀大会19回台北大会において伊沢総督が、台湾で栽培される日本種米を総称して「蓬莱米」と命名した。「蓬莱米」とは特定の米を指す言葉では無く「商標」と考えた方が良い。磯永吉か台中農事試験場にの場長しているときに、不可能と言われた在来種と日本種の交配に成功し「嘉南二号」や「嘉南八号」など100余種を育成した。しかし、これによって生み出された品種は食味良くなく、やがて廃れてゆく。蓬莱米の中で最初に普及した品種は「中村種」であった。しかしイモチ病に冒されたためイモチ病に強い「嘉義晩二号」が植えられる。この品種も食味に問題を持ちやがて末永仁によって昭和2年に交配育種に成功した「「台中六五号」が固定化されて選抜・奨励され全台湾に植えられるようになる。 かつて、インディカ米の島だった台湾は、末永・磯の努力によってジャポニカ米にしまになっら。今日、台湾で植えられている米は「蓬莱米」が98%にも達している。現在台湾で植えられている米には「台中六五号」の改良種である。
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