葛原勾当日記
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葛原勾当は、文政10年(1827年)16歳のときから明治15年(1882年)に71歳で病死するまで、56年間日記をつけていた。はじめ10年間は、稽古の日付・人名・曲名などを代筆で書き留めたにすぎないが、天保8年(1837年)26歳からは自ら考案した木製活字を用いて、盲目ながら自分の手で日記をつけ始めた。平仮名、数字、句点、日・月・正・同・申・候・御などの漢字をあわせ、計60数個の木活字を作らせ、各活字の左右側面に1本から7本まで横線を刻むことで、いろは歌の第何段・第何行のどの字であるかを触って識別できるようにしていた。活字の押捺にあたっては格子型にくりぬいた枠を用い、整然と印字されるよう工夫していた。これらの用具と日記は、琴・三味線稽古の記録10冊とともに、広島県重要文化財に指定されている。葛原が日記をつけた期間は56年に及ぶが、厳密な『葛原勾当日記』とは木活字を用いた46年分を指す。 葛原勾当日記は、方言や俗語を交えた口語体で、発音通りに記したところが多い。和歌の記載も多く、音楽史や国語史の好資料であり、盲人史上特筆に値する。また、日記にはしばしば歯痛の記述が見え、近年、19世紀における歯科資料として注目を浴びている。
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