著書『ラーフェンスブリュック』
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「ジェルメーヌ・ティヨン」の記事における「著書『ラーフェンスブリュック』」の解説
1945年7月11日、ヨーテボリからパリに戻り、7月23日に国立科学研究センターの研究員に復帰した。ペタン元帥の裁判、ラーフェンスブリュック裁判、その他フランスやイギリスで行われた多くの裁判を傍聴した。また、各レジスタンス・グループの旧メンバーや活動について調査し、書類を収集・作成するために「国家清算人」と呼ばれる調査員がグループの代表によって指名され、国防相の承認を得て任命されたが、ティヨンは「人類博物館・オーエ・ヴィルデ」グループの「国家清算人」に任命された。1946年、ラーフェンスブリュック強制収容所に関する調査結果(収容者数、死亡率、付属収容所一覧、強制労働による利益、収容者の国別特徴、人体実験等)をまとめた著書『ラーフェンスブリュック』を発表した。彼女はこの調査を生涯にわたって続け、1973年と1988年にも同名の著書を発表している。ティヨンは収容中から情報を収集していたが、「収容所から生還して自らの体験を語るという意欲が生き延びることができた大きな要因の一つ」であった。病に倒れ、母を失う苦しみに耐えながらも生還を果たすことができた理由について、彼女は、「私がラーフェンスブリュックを生き延びたのは、まず、そして間違いなく、偶然である。そして次の理由として、怒り、犯罪を暴きたいという意思があり、最後に、友情による協力のおかげである。なぜなら、私は本能的、肉体的な生きたいという願望はなくしていたからだ」と回想している。
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